第76話 体験が言葉に勝つ
ラーゴスの市場は、今日も開いていた。
アランが荷を積んだ馬を引いて市場に入ってきた。いつもの定番ルートだ。首都から南に三日、ラーゴスに着く。首都で仕入れた品をここで売り、ラーゴスの品を首都で売る。その繰り返しで五年、稼いできた。
最近は首都からラーゴスへ来る荷が変わった。首都から来る人間が増えている。物売りではなく、生活者として移ってくる人間だ。
「アラン、また来たのか」
市場の肉屋が声をかけた。
「来た。首都の様子を教えてやろうか」
「聞きたくはないが、聞かせてくれ」
「ますます静かになってる。パン屋の数が先月より二軒減った。客が来ないから閉めたそうだ」
肉屋が首を振った。
「ここはどうだ」
「ラーゴスは相変わらずだよ。マナ貨が安定してるから、値段の計算が楽だ。先月と今月で値段が変わっていない。お客さんが計算しやすいから、来やすいと思う」
「アルベリア金貨はここでも使えるか」
「使えるが、今日のレートだとマナ貨の方が得だな。昨日のレートで、アルベリア金貨1枚=マナ貨0.79枚だった」
アランが手元の書類を取り出した。
「ところで、これ見たか。先週、首都でも配ってきたやつだ」
「生活水準の比較表か。見た。正直、数字が具体的すぎて最初は嘘かと思った」
「嘘じゃない。俺が両方に行き来しているから分かるが、数字はだいたい合ってる」
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同じ日、首都のクラウスの店で。
客が一人来た。年配の女性で、常連だ。
「クラウスさん、マナ貨で払えますか」
クラウスが止まった。
「……え、マナ貨をお持ちで?」
「ラーゴスから来た商人からもらったの。交換比率で得になると言われて。司教様はダメだと言ってたけど、友人がラーゴスで使って問題なかったって言うし」
クラウスは少し考えた。
司教の言葉が頭にある。マナ貨は使ってはいけない。
でも同時に、先月の売上が七割だったことも頭にある。材料費が上がっていて、今月さらに値段を上げなければならないかもしれない。
「……受け取りますが、今日だけということで」
「ありがとう。助かります」
クラウスはマナ貨を受け取った。手のひらに乗せた。アルベリア金貨より少し色が違う。青みがかっている。しかし重さはしっかりある。
その日の夜、クラウスはマナ貨を材料仕入れの支払いに使ってみた。卸の業者が「ああ、マナ貨ね」と普通に受け取った。
「問題ないか?」と聞いたら、「もうラーゴスからの商人みんな使ってるから大丈夫」と言われた。
それだけだった。
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二週間後、ゴルが報告書を持ってきた。
「……長官、旅商人アランからの定期報告です」
カイトが書類を受け取った。
「首都でのマナ貨受け入れ商店:先週比で15店舗増加。合計73店舗。大神殿の説教から三週間でこの数字、というのが先方の所感です」
「増えていますね」
「……はい。ただ、アランさんは一点書いています。『司教の説教の影響で使いたくない、という人間も一定数いる。ただ、生活が苦しい人間は、信仰より生活を選んでいる』と」
「正確な観察です」
「……長官、これはうまくいっているのでありましょうか」
「想定の範囲内で進んでいます。速度は予測より少し遅いですが、方向は合っています」
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同じ時期、マルバスも報告を受けていた。
教会の情報網から。首都でのマナ貨の使用が増えている、という報告だ。
説教の効果が薄れている。民衆は神の言葉より、生活の体験を選んでいる。
マルバスは書類を机に叩きつけた。
静かに叩きつけた。指輪が机に当たって音がした。
「……聖なる教えより、金貨一枚の方が強いということか」
それは、マルバスが長年経験してきた現実だ。知っていたはずの現実だ。しかし、自分の手で試みた世論操作がこれほど簡単に崩れるとは思っていなかった。
カイトが流した書類は、数字だけだ。感情も、権威も、脅しも入っていない。ただ数字だけ。それが、説教より効いた。
「……やはり、あの男は……」
マルバスが部屋を歩いた。
別の手を打つ必要がある。宗教ではなく、もっと直接的な手だ。カイトの信用を落とす情報を流す。カイトが魔王領で何かをしている、という情報を作って流す。
しかし、そのためには証拠が必要だ。証拠がなければ、カイトがまた数字で反論してくる。
マルバスは部屋を歩きながら、考え続けた。
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カイトはその夜、ゴルに言った。
「マルバスが次の手に動くとすれば、今週か来週です」
「……なぜ分かるのでありますか」
「宗教での世論操作が効かなかった、という情報はマルバスにも届いているはずです。効かなかったと分かれば、別の手に変える。その切り替えに一週間程度かかるのが、官僚型の人間の動きのパターンです」
「……マルバスが官僚型と分かるのでありますか」
「三年間、同じ組織にいました。会議での発言パターン、書類の形式、意思決定のタイミング。記録してあります」
「……長官は、三年前からずっと記録していたのでありますね」
「仕事ですから」
ゴルが書類を整理した。
「……長官、一点だけ聞いてもいいでありますか」
「どうぞ」
「……長官は、聖王国で働いていた三年間、楽しかったでありますか」
カイトが少し止まった。
「楽しい、とは少し違います。やりがいはありました。ただ、やりがいを感じる仕事と、正しく評価される仕事が、一致しているとは限らない。聖王国では、一致していませんでした」
「……それが、追放につながったのでありますか」
「正確には、邪魔だと思われたからです。数字で正確に動く人間は、都合の悪いことを指摘します。都合の悪いことを指摘する人間は、邪魔になります。それだけのことです」
「……ゴルには、長官が邪魔だとは思えません」
「ここでは邪魔ではありません。ルシフェラ様が、邪魔になる人間を必要とするほど賢明だからです」
「……それは、ルシフェラ様への褒め言葉でありますか」
「事実です」
ゴルが少し笑った。笑顔というより、目の辺りが和らいだ感じだ。
「……長官、マルバスが次の手に動いたとして、こちらの準備は整っているのでありますか」
「整えてあります。正確には、三年前から整えてあります」
「……三年前の記録が、今使えるのでありますね」
「使えます。数字は古くなっても、事実は変わりません。起きたことは起きたことです。記録が残っていれば、それがそのまま証拠になります」
「……長官が三年前から準備していたというのは……」
「追放されるかもしれない、と思っていたわけではありません。ただ、何かが起きた時に記録が証拠になる、ということは、財務の仕事の常識です。記録を残すのは、習慣です」
ゴルが「……なるほどであります」と言った。
「では、明日からマルバスの件の書類整理を始めます。ゴル、明日の朝、記録保管の棚を一つ空けておいてください」
「……了解しました、長官」
カイトが書類を閉じた。定時が来た。窓の外は暗い。ラーゴスでは今日もマナ貨が動いている。首都では、73の商店がマナ貨を受け取っている。マルバスは今夜も何かを考えている。
それでいい。全部、予定の中だ。




