第75話 数字を流せ
五日後、リナリアとシルヴィアが書類を持ってきた。
執務室の机の上に、二人分の書類が広げられた。リナリアのものは几帳面な字で整理されている。シルヴィアのものは読みにくい部分もあるが、数値の精度が高い。
「まとめました。見てください」
カイトが書類を受け取った。
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**【魔王領・ラーゴス生活水準比較(聖王国首都比)】**
食料価格:ラーゴスの物価は首都比で18%安(マナ貨換算)
一般労働者の月収:ラーゴスは首都比で23%高い
医療費:魔王領の砦では外傷治療費が実質無料(医療部門整備により)
給与の安定性:魔王領では給与遅延が記録上ゼロ(首都は先月から軍給与の一部が遅延)
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「これは……かなり明確な数字です」
「……だよね。比較表の形にすると、余計に差が出た」
「確認します。この数字の出所は全部追えますか」
「……首都側の数字は、旅商人からの情報収集と、ラーゴス物流ギルドの記録。魔王領側の数字は、うちの帳簿から直接出しています」
「出所を明記した形で書類を作れますか」
「……もうできてます。裏付けのある形にしました」
カイトが書類をもう一度見た。数字に偽りはない。偽りのある数字を流しても、後で崩れる。崩れると逆効果になる。出所が追えて、事実として確認できる数字だけを流す。それが方針だ。
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翌日、カイトはゴルを通じて旅商人アランに書類を届けた。
アランは、ラーゴスから首都を往復する旅商人だ。物流ギルドの情報網で繋がっている人間だ。カイトが直接会ったことはないが、フォルカを通じて取引実績がある。
書状には、こう書いた。
「この書類をラーゴスと首都で、商人・職人の集まる場所に自由に配ってほしい。謝礼はマナ貨で。配布後に報告を」
アランが返答を寄越したのは三日後だった。
「了解しました。ラーゴスの市場と首都の旅籠と酒場に配りました。十二か所で計約200部。受け取った人の反応は:驚き七割、信じない二割、興味ない一割」
ゴルが報告書を持ってきた。
「……長官、アランさんから報告です」
「読みました。七割が驚いた、という反応が重要です」
「……なぜでありますか。信じない二割の方が問題ではないでありますか」
「信じない二割は、情報が届いていないか、現状に利害があるかのどちらかです。驚いた七割の内側に、生活が苦しい人間がいます。その人たちは、次に体験で確認しようとします。体験した後に、信じるかどうかが決まります」
「……体験とは」
「マナ貨を実際に使ってみる、ということです。使ってみて、価値が安定していれば、信じます。宗教の言葉より、自分の経験の方を最終的には信じます」
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首都のパン屋クラウスは、旅籠の壁に貼られた書類を見た。
「魔王領・ラーゴス生活水準比較」と書かれた書類だった。数字が並んでいる。食料の価格、給与の水準、医療費。
クラウスは読んだ。
「……ラーゴスでは物価が18%安い」
自分の店では、先月からパンの値段を12%上げた。材料費が上がったからだ。それより前の月も上げていた。合計で先々月から25%上がっている。
「……ラーゴスではそんなに違うのか」
旅籠の主人が通りかかった。
「クラウスさん、それ読んでるんですか」
「ああ、なんか数字がいっぱいで」
「ラーゴスから来た客が置いていったやつらしいですよ。本当かどうか知らないけど」
「本当かな……」
「でも、ラーゴスのマナ貨の話は、うちにも来る客からよく聞きますよ。使い勝手がいいって」
「司教様はマナ貨を使っちゃいけないって言ってたけど」
「まあ……ラーゴスではみんな使ってるって話だし」
クラウスが考えた。
信仰は大切だ。司教の言葉に従うのが正しいと思う。でも、同時に、生活が大切だ。先月の売上は前月の七割しかなかった。客が減っている。このまま値上げを続ければ、もっと客が来なくなる。
どうすればいいのか、クラウスには分からなかった。
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その夜、カイトはゴルに言った。
「第一段階は終わりました。情報は流れています。次は、もう少し待ちます」
「……待つのでありますか」
「情報は流れましたが、体験が積み重なるには時間が必要です。急がない。ただ、その間に別の準備を始めます」
「……別の準備とは」
「マルバスの件です。こちらが動けば、向こうもまた動きます。向こうが次に何を使うか、予測を立てておく必要があります」
「……長官は、マルバスが次に何をすると思いますか」
カイトが少し考えた。
「帳簿に触れるか、私を直接排除しようとするか、のどちらかです」
「……排除、でありますか」
「過去の記録から、マルバスは直接手を汚さない人間です。他の手段を使います。ただ、追い詰められると、より危険な手を選ぶ可能性があります。それを想定して、準備します」
「……長官、それは危険ではないでありますか」
「想定内なら、危険ではありません。想定外の時が危険です。だから先に考えておきます」
ゴルが少し心配そうな顔をした。
「……ゴルは、長官が危ない目に遭うのは嫌であります」
「分かっています。だからこそ、先に準備します」
「……準備とは具体的に何でありますか」
「マルバスの動きを先回りする証拠を用意することです。相手が動く前に、こちらが動いた記録を残す。後で必要になった時に、使える形にしておく」
「……それは、もう始めているのでありますか」
「三年前から始めています」
ゴルが止まった。
「……三年前から、でありますか」
「聖王国で財務として働いていた時から、記録は全部取っています。公式の帳簿だけでなく、私自身が確認した数字の記録も別に残してあります。それが今、使える状態にあります」
「……長官は、最初からこうなることを知っていたのでありますか」
「知っていたわけではありません。ただ、記録は将来使えると思っていました。何かが起きた時に、数字が証明になる。それだけです」
ゴルがしばらく沈黙した。
「……ゴルは、長官が聖王国にいた時から、こういう人間だったのだと思います」
「どういう意味ですか」
「……何かが起きる前に準備する人間です。起きてから慌てない人間です」
「結果が変わる準備しかしませんから」
「……それが、長官のやり方でありますね」
カイトが頷いた。
窓の外で夜が深まっていた。ラーゴスと首都の旅籠で、今日も誰かが書類を読んでいるかもしれない。クラウスが考えているかもしれない。アランが次の仕事を計算しているかもしれない。
情報は流れている。あとは時間だ。
「ゴル、今日は上がってください。明日の準備は整っています」
「……はい。お疲れ様でした、長官」
ゴルが退室した。カイトは書類を閉じた。定時に終わる。それがここのルールだ。




