第74話 聖なる説教
主日の朝、大神殿に人が集まった。
エルデの大神殿は、王都の中心に立っている。石造りの建物で、高い柱が並んでいる。礼拝堂は広く、千人以上が収容できる。今日は七割ほどが埋まっていた。
信徒たちの顔は、どれも疲れている。
物価が上がっている。仕事が減っている。金貨の価値が下がっている。食べるのに困ってはいないが、先が見えない。そういう顔だ。礼拝に来るのは、日常の安定が崩れた時に増える。神に祈ることで、何かを確かめたい。そういう気持ちが、集まっている人たちの顔に出ていた。
高い壇上に、司教が立った。
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司教の名はシメオン。五十代の男性で、声が大きい。
「今日は、皆さんに大切なことをお伝えします」
礼拝堂が静まった。
「最近、皆さんの生活の中に、新しい通貨が流れ込んでいるのをご存知ですか」
数人がざわめいた。
「マナ貨、と呼ばれるものです。魔王軍が作った通貨です。ラーゴスで使われ、今や首都にも入り込んでいます。パンを買う時に、マナ貨で払えると書いた店が出てきています」
シメオンが手を広げた。
「皆さんにお伝えしなければなりません。マナ貨は、魔王の力で作られたものです。聖なる神の教えに従えば、これは受け入れてはならないものです。魔王軍に経済的な力を与えることは、悪の力を育てることです」
礼拝堂がまた静まった。今度は深い静けさだ。
「マナ貨を使わないでください。店でマナ貨を受け取らないでください。それが、信仰を守ることです。神は、皆さんの選択を見ています」
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礼拝の後、人々が石畳の外に出てきた。
パン職人のクラウスは、今日も礼拝に来ていた。妻のルーナと並んで出てきた。
「……マナ貨を使ってはいけない、か」
「シメオン様がそう言ったのだから、そうなのじゃないかしら」
「でも、先週ラーゴスから来た客がマナ貨で払ってきた時、受け取ったんだけど」
クラウスが困った顔をした。
「受け取ったら問題になるのか」
「……聖なる教えに反する、って言っていたけど、じゃあラーゴスの人たちはどうなのかしら」
「ラーゴスではみんな使ってるって聞いた。ラーゴスは神様を信じていないのかな」
ルーナが「そういうわけじゃないでしょ」と言った。
「でも、マナ貨を使えば安く買えるって噂じゃないか。アルベリア金貨がどんどん価値が下がってるから、マナ貨の方が安定してるって」
「それは……信仰と別の話でしょう」
「別の話かな」
クラウスは石畳を歩きながら考えた。司教の言葉は、よく分かった。神の教えというのは、いつも明確だ。従うか従わないかの二択だ。しかし、生活のことを考えると、そんなに単純ではない気がした。
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大神殿から離れた場所で、一人の男が礼拝の様子を聞いていた。
アランという旅商人だ。ラーゴスと首都を行き来することが仕事だ。ラーゴスではマナ貨を使い、首都ではアルベリア金貨を使う。その差額が収入になる。
今日の説教を、礼拝堂の外でほぼ全部聞いた。
帰り道で、考えた。
マナ貨を使ってはいけない、と司教は言った。使えば信仰に反する、と言った。しかし、ラーゴスではマナ貨が普通に使われている。ラーゴスでも聖王国の民衆は礼拝に行っているはずだ。ラーゴスの人間が全員、信仰を捨てているとは思えない。
使ってはいけない、というのと、使うと悪いことが起きる、というのは違う。
アランはそう思いながら、市場の方向に歩いた。
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首都で礼拝が行われた翌々日、情報が魔王領に届いた。
物流ギルドの情報網を通じて、ゴルのところに報告が来た。
「……長官、聖王国の大神殿で、マナ貨についての説教が行われたとのことです。内容は『マナ貨は悪魔の通貨・使用してはならない』というものです」
カイトが書類から顔を上げた。
「予想よりは速かった。二日の誤差です」
「……予想していたのでありますか」
「マルバスがそういう人間だということは、以前の業務記録から把握していました。宗教的な言葉を使うのは、マルバスの得意な手段です。聖職者ですから」
「……どう対応するのでありますか」
「数字で対応します」
「……数字、でありますか。宗教に対して数字で対応できるのでありますか」
「できます。神の言葉より、体験の方が強いです。マナ貨を使って生活が楽になったという体験が積み重なれば、宗教的な禁止より体験の方を選ぶ人間の方が多くなります。それを加速させます」
「……具体的にはどうするのでありますか」
「次の話をしましょう。今日の夕方に、作戦会議をします」
カイトが書類に視線を戻した。
宗教と経済の戦い、という形に見えるかもしれない。しかし、実際はそうではない。情報の戦いだ。
マルバスが言葉を使うなら、こちらは事実を使う。事実は、反論できない。「神の言葉に従うと生活が苦しくなる」という体験が積み重なれば、人は選択を変える。それが、経済の論理だ。感情よりも、生活の実感の方が最終的には強い。
問題は、速度だ。マルバスが世論操作を始めた。この操作が定着する前に、対抗の情報を流す必要がある。
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その日の夕方、カイトはシルヴィアとリナリアを呼んだ。
「二人に頼みたいことがあります」
「……何かね」
「魔王領の生活水準と、ラーゴスの物価水準について、数字をまとめてください。食料の価格、給与の水準、医療費、住居費。比較できる形で整理してほしいです。聖王国側の数字と並べられる形で」
「……聖王国と比較するのね」
「はい。比較した結果を、旅商人やラーゴスの商人を通じて聖王国側に流します。説教で聞いた言葉より、数字の方が具体的です。具体的な数字が生活の実感と結びつくと、人の判断が変わります」
リナリアが少し考えた。
「……宗教の言葉に、数字で対抗するということね」
「対抗というより、別の情報を提供するだけです。人が自分で判断できる情報を与える。判断するのは人それぞれですが、情報がなければ判断できません」
「……カイトさん、それはどのくらいの期間でできますか」
「一週間でまとめられますか」
「……五日でやります」
「ありがとうございます」
シルヴィアが「……リナリア、私も手伝おう」と言った。
二人が退室した。
ゴルが「……うまくいくでありましょうか」と言った。
「やってみないと分からない部分はあります。ただ、数字は嘘をつかないので、方向性は正しいと思っています」
「……長官が『方向性は正しい』と言う時は、たいてい合っているでありますね」
「今回は少し不確定要素が多いです。人の感情は数字より計算が難しいので」
「……長官が不確定要素が多いと言うのも、珍しいでありますね」
「そうですか」
「……はい。ゴルは少し、安心しました」
「安心?」
「……長官が全部計算通りだと、たまにゴルが何もする必要がない気がするのです。長官が不確定だと、ゴルが頑張れる余地があります」
カイトが少し間を置いた。
「あなたが頑張れる余地は、常にあります。計算外の部分を埋めるのが、チームです」
「……ありがとうございます、長官」
ゴルが少し嬉しそうな顔をして、書類を整理し始めた。
カイトは窓の方を向いた。夜が来ていた。北方の空に星が出ている。
マルバスが動いた。宗教で民衆の判断を操作しようとしている。それは理解できる手だ。宗教は、生活が不安定な時ほど強い力を持つ。聖王国の民衆は今、不安定だ。その不安定な時期を狙って、「マナ貨は悪」という情報を植えつけた。
しかし、宗教は体験には勝てない。
体験とは、「マナ貨を使ったら、アルベリア金貨より安定していた」「マナ貨で買ったパンは正規の値段で買えた」「マナ貨の店では値段が上がっていなかった」という積み重ねだ。それが一つ、二つと増えるたびに、宗教的な禁止の言葉は力を失う。
五日後に、リナリアとシルヴィアが数字をまとめてくれる。その数字を、旅商人のアランのような人間を通じて首都に流す。アランは利益が動けば動く人間だ。マナ貨の情報を届けることで、彼自身にも益がある形にする。
計算は、たぶん合っている。
たぶん、という部分がある。それが今回の不確定要素だ。人の感情は計算より複雑だ。ゴルが言っていた。計算外の部分を埋めるのが、チームだ。
カイトは書類を閉じた。今日はここまでだ。定時になった。




