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異世界転移した元・社畜コンサルタント、魔王軍の財務を立て直す 〜暴力より帳簿が強い世界で、俺は数字だけで魔王軍を最強にする〜  作者: 久留トガ


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第73話 王宮の怒号

 書類が届いたのは、翌朝だった。


 エドワードはその朝、鎧の磨き上げを侍従に命じていた。午前の謁見に備えるためだ。鎧は聖王国の騎士の誇りを示す。金の装飾が入った銀色の板金は、祖父の代から伝わる家宝だ。最近は修繕に出しても戻ってくるのが遅い。職人から「代金の確認ができていない」と言われたことがあった。あれは不愉快だった。


 エドワードの執務室に、外務省の書記が書類を持って来た。「魔王領からの正式提案書です」と言った。その書記は、書類を机に置いた瞬間に後ずさりした。エドワードの顔を見て、何かを感じ取ったのだろう。


 エドワードは書類を手に取った。


 最初の二行を読んだ。


「……なんだこれは」


 読み続けた。三行、四行、五行。


「……はっ」


 最後のページまで読んだ。机に書類を叩きつけた。


「魔王軍が聖王国を買収する、だと! 何が提案だ! ふざけたことを抜かすな!」


 声が廊下まで響いた。侍従が扉の外でそわそわしているのが、エドワードには見えなかった。


「こんな紙切れ一枚で、この我が跪くとでも思っているのか! カイト、お前は……!」


---


 午後、枢機卿マルバスが呼ばれた。


 謁見室でエドワードは怒りが収まっていない様子だった。書類を手に持ったまま、マルバスに差し出した。


「これを見ろ。魔王軍の财务長官とかいう男が送ってきた」


 マルバスが書類を受け取った。丁寧に読んだ。指輪をはめた指で、紙の縁を押さえながら、一行一行確認した。


「……ふむ」


「ふむ、ではない! どう思う!」


「……落ち着いて、殿下。まず内容を整理しましょう」


「整理する必要があるか! 断るだけだ!」


 マルバスが穏やかな声で言った。


「断る、というのは、一つの選択肢です。ただ、断るにあたっては、その結果を把握しておく必要があります」


「どういうことだ」


「……聖王国の現在の財政状況を、殿下はご存知ですか」


「……それは」


「来月、騎士団第三大隊の給料が遅配になります。先月の段階で、国庫は半年前の三割以下です。これは私が確認した数字です」


 エドワードが黙った。


「それは……知っていた。しかし、これとは別の話だ」


「別の話ではありません、殿下。この提案書は、我々の財政状況を正確に把握した上で書かれています。有効期限が30日、という記述もあります。これは——」


「分かっている! 分かっているが、魔王軍に頭を下げるなど……!」


---


 夜になった。


 マルバスは自室に戻り、書類を広げた。燭台の光の下で、もう一度読んだ。


 提案の内容は、実務的に整理されていた。感情的な言葉がない。脅しの言葉がない。ただ、条件が並んでいる。


 聖王国の対外債務を市場価格の四割で引き受ける——これは、債権者に対して魔王軍が支払いを肩代わりするということだ。現時点で聖王国の借入先は七つの商会と二つの隣国だ。その全部を魔王軍が引き受ければ、聖王国は魔王軍に対して債務を負う形になる。


 通貨をマナ貨に一本化——これは、聖王国が独自の通貨発行権を失うということだ。


 マルバスは書類を机に置いた。


 これは、断れない。


 財政状況から考えれば、断る選択肢が実質的にない。断れば、来月から軍の給料が止まる。再来月には税の徴収ができなくなる。三ヶ月後には王宮の維持費が出なくなる。


 受け入れれば、形式上は「交渉」の体裁を取れる。条件の一部を変えることで、こちらが判断したという形にできる。


 しかし、受け入れることの意味は何か。聖王国が魔王軍の管轄下に入る、ということだ。マルバスが積み上げてきた聖職者としての地位・権限・利権、それがすべて変わる可能性がある。自分の商会との契約。武器商人との取次。それらが——。


 マルバスは書類を机に置いた。


 問題は、カイトという人間だ。


 マルバスは考えた。あの男は、以前に聖王国の財務として働いていた。カイトが財務として動いていた期間は三年だ。その三年間に、どこまで情報を持ち出したか。


 横領の記録——マルバスの脳裏にそれが浮かんだ。


 帳簿は、カイトが管理していた。カイトが持っていれば、何の情報があるか分からない。聖王国の財務は長い間、数字の上では整っていた。整っているように見えた。しかし、実際には——


 マルバスは考えるのをやめた。考えても意味がない。カイトが何を持っているかは、カイトを排除すれば問題にならない。


「……排除しなければならない」


 マルバスは独り言を言った。静かな、冷静な声で。


---


 その夜、マルバスは書状を書いた。


 宛先は、聖王国の宗教省だ。大神殿の司教たちへ。書状の内容は、「魔王領の通貨マナ貨について、聖なる教えに基づいた見解を発表してほしい」という依頼だ。


 マナ貨を「悪魔の通貨」として宗教的に否定すれば、民衆はマナ貨を使わなくなる。使わなければ、マナ貨の流通が止まる。流通が止まれば、魔王軍の提案の前提が崩れる。


 これは、時間稼ぎだ。


 マルバスはそれを分かった上で書いた。時間稼ぎでも、何もしないよりはいい。そして、その間に別の手を打つ。


 カイトの排除は、別途考える。


 書状の内容を、マルバスは丁寧に組み立てた。


 「マナ貨は魔王軍の発行する通貨であり、聖なる神の教えに反する通貨である」——そう書く。「民衆がマナ貨を使うことは、悪魔の意志に加担することである」——そう書く。「大神殿は、信徒にマナ貨の使用を控えるよう指導せよ」——そう書く。


 これは、宗教的な言葉だ。経済の言葉ではない。しかし、民衆は経済の言葉より宗教の言葉の方に反応する。特に、生活が苦しい時は。生活が苦しければ、何か悪いものがあると信じたい。その「悪いもの」としてマナ貨を指定すれば、使わなくなる。


 マルバスはそれを、長い経験から知っていた。


 書状を書き終え、使いの者に渡した。「明日の朝一番に届けろ」と言った。使いは頷いて出ていった。


 マルバスは燭台の炎を見つめた。


 カイトという人間は、もとは聖王国の財務官だった。平民の出身で、魔力もない。剣も持たない。それが、書類と数字だけで魔王軍を立て直した。聖王国の通貨を崩壊させた。そして今、聖王国そのものを買収しようとしている。


 三年間、財務として働いていた。その三年間に、何を見ていたか。何を記録していたか。


 マルバスは長く聖職者として生きてきた。人を読む目は、それなりにある。カイトという男は、見た目は地味だが、動き方が違う。先を読んで、順番に動く。感情で動かない。怒りも、恐れも、顔に出さない。


 そういう人間は、厄介だ。


「……あの帳簿記録師め」


 炎が揺れた。窓の外で風が動いた。


 マルバスは立ち上がり、窓を閉めた。暗い部屋に、燭台の光だけが残った。


 翌日、大神殿の司教から返答が来た。「了解いたしました。主日の礼拝で周知します」と書いてあった。


 主日は五日後だ。聖王国全土の大神殿で、信徒たちに向けた説教が行われる。そこで、マナ貨について語られる。


 マルバスはその返答を読んで、小さく頷いた。


 これが、第一手だ。


 カイトが数字で動くなら、自分は言葉で動く。数字を人は信じないこともある。しかし、神の言葉は信じる。民衆は数字より信仰の方に従う。


 そう、マルバスは信じていた。


 長い時間をかけて積み上げてきた確信だ。信仰とは、生活が苦しくなればなるほど強くなる。苦しい時に、人は答えを求める。宗教は、その答えを提供できる。「苦しみの原因はこれだ」と言えば、人は信じる。


 問題は、カイトがどう動くかだ。


 マルバスは考えた。カイトは数字の人間だ。数字で全部を見る。宗教的な言葉には、どう反応するか。


 おそらく、無視しない。何か対応してくる。カイトという人間は、先手を打つタイプだ。こちらが動いたことに気づいた時点で、対応策を用意してくる。


 では、こちらが動いたことをなるべく遅く気づかせる必要がある。


 主日の説教は五日後だ。説教が行われてから、情報が魔王領に届くまで、さらに数日かかる。その間に、もう一手打てる。


 マルバスは次の書状を書き始めた。今度は宛先が違う。別の経路で、別の動きをする。一本だけで動かない。複数の線を引いておく。


 それが、老獪というものだ。



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