第72話 使節、出立す
フォルカが出立する朝、砦の南門に数人が集まった。
フォルカは南方補給長だ。体は細長く、蝶の翅が背中にある。今日は翅を半分たたんで外套をかぶっている。聖王国に入るためだ。魔物と分かる外見を目立たせないよう、布で覆う。外套の下に書類の入った鞄を提げている。
「準備は整っています」
「使節の身分証明書と、提案書の原本。コピーを三部。それから、万が一の時のための白紙の書状。確認しましたか」
「……確認済みです。抜けはありません」
「聖王国の使節受け入れ窓口は、外務省の文書受付です。エドワードへの直接提出ではなく、まず受付に提出してください。受領印をもらってから退出する。それだけです」
「……承知しました。所要時間は」
「往復で八日から十日です。急がなくていいです。ただし、書類を渡した後は、受領印をもらう前に引き上げないこと」
「……分かりました」
フォルカが外套を整えた。
「……カイト長官、一点だけ。向こうでの反応が悪かった場合の対応は」
「反応がどうあれ、あなたの任務は書類を渡して受領印をもらうことだけです。返答は30日後に来ます。現地での交渉は不要です」
「……了解しました」
フォルカが馬に乗った。護衛二名が後ろに続いた。南門が開く。朝の光の中に、三人の後ろ姿が消えていった。
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ゴルが隣に立っていた。
「……出ていきました」
「はい」
「……長官、少し不安そうに見えます」
「見えますか」
「……はい。珍しいと思いました」
「不安というより、計算通りに進んでいるか確認しているだけです。フォルカは優秀です。書類は正確に書いた。あとは聖王国側の反応次第ですが、反応のパターンはどちらの場合も準備できています」
「……どちらの場合とは」
「受け入れる場合と、拒否する場合です」
「……拒否した場合はどうなるのでありますか」
「こちらが困りません。向こうが困ります」
ゴルが「……そうでありますか」と言った。少し安心したように見えた。
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フォルカが聖王国の首都エルデに到着したのは、出立から四日後だった。
首都の様子は、前に来た時と違った。フォルカは以前、補給ルートの調査で一度だけ首都近くを通ったことがある。その時は、人通りがあった。今日は人が少ない。商店の扉が閉まっている。屋台が出ていない。
市場の広場に立った。飾りのない石畳に、数人だけが歩いている。菓子を売る声がしない。物売りの声がない。人の声が聞こえない。
これが、物価崩壊の現場だ。人が外に出なくなっている。買い物をしても損をするから、家に引きこもっている。それが街の沈黙になって現れる。
フォルカは外務省の方向に馬を向けた。
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外務省の建物は、王城の南側にある。以前は出入りする人間が多かったのかもしれない。今日は廊下に人がいない。扉の向こうから声が聞こえない。開いている部屋に三名が座っているだけだ。
受付は、係の役人が一人で座っていた。老いた男性だった。書類が山のように積まれている。顔が疲れている。
「……魔王領からの使節、フォルカです。正式な提案書を提出に参りました」
役人が顔を上げた。
「……魔王領から、ですか」
「はい。身分証明書はこちらです」
フォルカが書類を差し出した。役人がそれを受け取った。眼鏡をかけて確認する。指が震えている。震えているのは、驚きか、恐れか、疲労か、分からない。
「……正式な外交使節、として」
「そうです。提案書の提出のみが目的です。ご返答は30日以内に魔王領へお送りください」
役人がしばらく黙っていた。書類を手に取り、判を確認した。
「……受け取ります。受領印を押します」
「ありがとうございます」
受領印が押された。書類がフォルカの手から役人の手に渡った。
それだけだった。交渉も、反論も、怒鳴り声も、何もなかった。受付係の老いた役人が、震える手で判を押しただけだった。
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フォルカが外務省の廊下を歩いて出た。後ろで扉が閉まった。
護衛の一人が小声で言った。
「……終わったんですか」
「終わった」
「……あっさりしてましたね」
「そういうものだ。大事なことほど、手続きはシンプルになる」
三人は馬に乗り、首都の外へ向かった。来た時と同じ石畳を通った。人の少ない広場を抜けた。城門を出た。街道に出ると、風が変わった。
帰路の四日間は、フォルカには考える時間だった。自分が今日した仕事の意味を、道々で考えた。
自分が今日運んだ書類は、国と国の話だ。自分は補給長として、物を運ぶ仕事をしてきた。食料・武具・燃料・薬品。それらを届けることが、自分の役割だった。
今日は、違う種類のものを運んだ。数字と言葉で書かれた提案書。それが、国の形を変えるかもしれない。物を運ぶのと、書類を運ぶのは違う仕事のように見えるが、届けることで何かが動く、という点では同じだ。
フォルカは翅を外套の下でわずかに広げた。旅の最後の一日、天気が良かった。
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フォルカが砦に戻ったのは、出立から九日後だった。
「受領印、確認しました」
カイトが書類を受け取った。受領印の日付と形式を確認した。問題ない。正式に受け取られた。
「首都の様子はどうでしたか」
「……人が少なかったです。市場が静かでした。物売りの声がしなかった」
「そうですか」
「……これが、長官の言っていた『通貨崩壊』の現場でありますか」
「その段階に入っています。次の段階はもう少し速いと思います」
フォルカが少し間を置いた。
「……長官、一点だけ。受付係の役人が、書類を受け取る時に手が震えていました。あれは」
「重要書類だと分かっていたからだと思います。役人レベルでも、何かが変わると感じる書類でした。それは正しい感覚です」
「……そうでありますか」
フォルカが退室した。
ゴルが「……さて、30日後の返答を待ちます」と言った。
「その前に、向こうが動きます。30日は待たない」
「……どういう意味でありますか」
「エドワードが激怒するのは確実です。激怒した後、何かをしようとします。それが何かを確認してから、次の手を打ちます」
「……長官は、先が読めているのでありますか」
「読んでいるのではなく、考えられるパターンを全部並べているだけです。どのパターンになっても、対応できる準備をしてあります」
「……それが、長官の言う準備でありますね」
「そうです」
ゴルが少し間を置いた。
「……ゴルは、今日の報告を聞いて思ったのでありますが」
「なんですか」
「……フォルカさんが言っていた、受付係の役人が手を震わせていた、という話。あの役人は、何を感じたのでありましょうか」
カイトが考えた。
「おそらく、何かが終わる、と感じたのだと思います。自分が知っている世界の形が、変わるかもしれない、という感覚です。それは正しい感覚です」
「……怖かったのでありましょうか」
「そうかもしれません。変化は怖いものです。でも、変化は来ます。怖いかどうかに関係なく」
「……ゴルも、最初に長官が来た時、怖かったでありますよ」
カイトが少し止まった。
「……そうでしたか」
「……はい。でも今は怖くありません。変化が来た後の方が、前より良くなっていたからです。あの役人も、そうなるといいと、ゴルは思いました」
「……そうなるように、設計しています」
「……はい。長官が言うなら、そうなると思います」
ゴルが書類を整理し始めた。カイトも書類に向かった。
提案書を受け取ってから、聖王国側が動くまでどのくらいかかるか。二日か、三日か。エドワードの性格を考えると、一日以内に怒鳴り声が聞こえる可能性がある。そのつもりで、次の書類を準備しておく必要がある。




