第71話 本丸の設計
シグが来てから、二週間が経った。
砦の朝は少し変わっていた。食堂からブルグの料理の匂いがする。廊下を歩けばシグが訓練場の方向に消えていく。研究棟ではセルジオとシルヴィアの声が聞こえる。それが日常になった。
カイトは執務室でゴルの報告を聞いていた。
「マナ貨の流通状況です。ラーゴスでは全商店での受け入れが完了しています。首都圏では、先週末時点で58の商店が受け入れを表明しました」
「アルベリア金貨との交換比率は」
「……現在、市場では1対0.82です。先週が1対0.86でしたので、さらに下がっています」
「予定より少し速い」
「……はい。インフレが進んでいるため、マナ貨への逃避需要が読みより高かったようです」
カイトは書類に書き込んだ。アルベリア金貨の信用崩壊は数字で見えている。崩壊するとは分かっていたが、速度が予測を上回っている。崩壊が速すぎると、次の準備が間に合わない。
「首都圏での流通拠点は増やせますか」
「……ラーゴスの物流ギルド経由で3か所追加できます。ただし人員の確保が必要です」
「手配してください」
「……了解しました」
---
報告が終わった後、カイトはゴルを引き止めた。
「次の話をしていいですか」
「……はい。何でありますか」
「聖王国アルベリア、買収します」
ゴルが動かなかった。
「……か、買収、でありますか」
「国ごとです。ただし、剣ではなく書類で」
「……聖王国を、書類で買収する、ということでありますか」
「正確には、聖王国の債務を引き受ける形で交渉します。先方が財政的に詰まっている時に、適正な条件で申し入れる。断れない状況を作ってから提案する、というやり方です」
ゴルが少し考えた。
「……今の聖王国は、断れる状態ではないのでありますか」
「はい。国庫の底は見えています。アルベリア金貨の崩壊が続けば、あと数ヶ月で歳入が確保できなくなります。軍の給料が払えなくなる前に交渉を始めれば、こちらが有利です」
「……なるほどであります。長官、それが『本丸』でありましたか」
「そうです。通貨崩壊はその前段階でした。本丸はここです」
---
ゴルが書類を取り出した。
「……提案書の骨子を確認させてください」
「あなたが書いたのですか」
「……長官が『本丸』と言った日の夜に、骨子を考えてみました。合っているか確認していただきたいのです」
カイトは書類を受け取った。ゴルの文字は小さくて几帳面だ。
骨子:
一、聖王国の対外債務を魔王軍が市場価格の四割で引き受ける
二、通貨をマナ貨に一本化する(移行期間12ヶ月)
三、王族・貴族の身分は保全する(財産の一部は保留)
四、人間・魔物の共存体制を維持し、差別禁止規定を法制化する
「……間違っていたら言ってください」
「だいたい合っています。条件三を修正します。身分の保全は条件付きにします。エドワードについては別に協議する形にします」
「……エドワード殿下は、条件から外すのでありますか」
「外すのではなく、別途交渉します。一番難しい条件なので、後回しにする方が交渉全体がスムーズになります。先に他の貴族を取り込めば、エドワードは孤立します。孤立した後で条件を提示する方が、受け入れやすい」
ゴルが「……長官のやり方であります」と言った。少し感心したような声だった。
---
その日の午後、カイトはルシフェラに報告した。
「次の段階に入ります。聖王国アルベリアに対して、買収提案を正式に提出します」
ルシフェラが眉を動かした。
「……買収とは、いかなる意味か」
「書類と数字で国を手に入れる、ということです。剣を使わずに、財政的に支配下に置く方法です」
「……それは、戦争ではないのか」
「戦争より安上がりです。戦争であれば人員・物資・時間のコストが発生します。交渉であれば書類と時間だけです。どちらが効率的かは明らかです」
ルシフェラが少し間を置いた。
「……我は、魔王軍が強いことを証明したかった。それが交渉でも成立するのか」
「より完全に成立します。武力では勝てても、相手が従うとは限りません。財政で勝てば、相手は自分から従います。選択肢がないからです。それは、武力より完全な勝利です」
「……カイト、それが本当に可能だと確信しているか」
「はい」
間を置かなかった。
「……わかった。進めよ」
---
執務室に戻ると、ゴルが書類を整理していた。
「……長官、ルシフェラ様はどうでしたか」
「了承いただきました」
「……さすがです」
「ゴル、使節の手配を始めてください。聖王国への正式な使節が必要です。適任者は誰ですか」
「……フォルカさんが南方補給長として商業都市ラーゴスとの接触実績があります。外交的な調整能力があると思います」
「フォルカに打診してください。書類は今週中に完成させます。提案書の正式版の起草を始めます」
「……了解しました」
カイトは新しい紙を取り出した。提案書の第一稿を書き始める。
書き方は、慣れている。聖王国で働いていた時に何百本もの提案書を書いた。受け入れられる提案書と、却下される提案書の違いは、相手に選択肢があるかどうかだ。相手に選択肢があれば、断られる。相手に選択肢がなければ、受け入れられる。今の聖王国には、選択肢がない。
「ゴル、一点確認です。フォルカが動ける状態ですか」
「……はい。今週は輸送路の定期点検の予定がありますが、それは補佐に任せられます」
「では来週中に使節として出立できるよう手配してください。書類は今週末に渡せます」
「……了解しました、長官」
ゴルが退室した。
カイトは羽ペンを走らせながら、提案書の構成を頭の中で整理した。
聖王国の財務状況は、【経理】で常時把握している。国庫の残高は半年前の三割以下だ。軍の装備費は滞納が始まっている。来月には騎士団の給料が遅配になる可能性がある。遅配が起きれば、兵士が逃げ始める。兵士が逃げれば、エドワードは守る力を失う。
そこが交渉のタイミングだ。守る力を失う前に、条件を出す。相手がまだ交渉できる状態のうちに話を始める方が、最終的な結果がいい。完全に崩壊してからでは、引き受けるものが多すぎる。
「……長官」
ゴルが戻ってきた。
「フォルカさんに打診しました。了承いただきました。『南方補給長として聖王国の現場も見ておきたかった』と言っていました」
「フォルカらしい判断です。ありがとうございます」
「……一点だけ確認です。フォルカさんが聖王国に入る際、身の安全は大丈夫でありますか。使節として扱われるかどうか」
「聖王国は一応、使節不可侵の慣習があります。それを破れば、外交的な問題になります。今の聖王国には、その問題を増やす余裕はない。安全です」
「……了解しました。では、出立の準備を整えます」
ゴルが再び退室した。
カイトは書類に向かった。提案書の文体は、感情を排して数字だけで語る形にする。感情的な言葉は交渉を難しくする。数字だけなら、受け入れるか断るかしかない。シンプルな形式が最も強い。
今週中に書き上げる。来週、フォルカが出立する。再来週には聖王国に届く。その後の反応が見ものだ。エドワードが激怒するのは分かっている。マルバスが動くのも見えている。どちらも、予定の中に入っている。
提案書の末尾に、カイトは一行書き加えた。
「なお、本提案の有効期限は提出日から30日間とします。期限内に回答がなかった場合、この提案は撤回されます」
撤回、という言葉に意味がある。受け入れなくても問題ない、という態度を見せることで、相手が焦る。本当は撤回するつもりはない。ただ、そう書くことで、相手が30日以内に何か動く。動けば、交渉が始まる。それが目的だ。
ゴルが三度目に顔を出した。
「……長官、お茶を持ってきました。今日は長くなりそうですか」
「今夜中に終わります」
「……了解しました。では明日の朝、最終確認をします」
「ありがとうございます」
ゴルが出ていった。カイトはペンを走らせ続けた。




