第67話 シグ
ターニャとセルジオが去った後、シグは一人で宿に残った。
荷物が減った部屋は広く見えた。セルジオの書類入れがなくなった。ターニャの薬草袋がなくなった。三人で共有していた食事の時間がなくなった。夕食を一人で取った。食堂に他の客が数人いたが、誰とも話さなかった。静かな食事だった。静かすぎて、少しだけ落ち着かなかった。
シグは剣を持って外に出た。
街の広場で素振りをした。一人でやる練習だ。パーティーで動く時と違って、誰かの動きを気にする必要がない。それが楽でもあり、何かが欠けている感じでもあった。誰かのために動く、という感覚がない。ただ剣を振っている。それが今の自分の状態だ。
素振りを百回終えた。汗をかいた。水を飲んだ。剣の重みは変わらない。自分の体も変わっていない。でも自分の中にある何かが変わっている。
広場を見回した。人が少ない。みんな家にいるか、出かけるのを控えているのか。物価が上がれば、外に出ることも控えるようになる。それもインフレの影響だ、と頭のどこかで思った。カイトと会って以来、そういうことを以前より考えるようになっていた。
空が曇っていた。雨が来るかもしれない。
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宿に戻って、シグは剣を磨いた。習慣だ。何も考えなくても手が動く。剣を磨いている間は、他のことを考えなくていい理由がある。でも今夜は、磨きながら考えた。
ターニャの言葉を思い出していた。あの時、シグの手が止まった。ターニャは気づかなかった。でも確かに止まった。
カイトに言われ、宮廷経理に行って168万G、年間という数字を出した。その数字を知った時の感覚を、シグは今でも覚えている。数字が出た瞬間に、何かが変わった。見えていなかったものが見えた。
どういう意味だったのか、あの時は完全には理解できなかった。でも今は少し分かる気がする。勇者として戦う自分が「正しくてかっこいい」と思っていた。魔王軍を「悪い側」と思っていた。でもその勇者を支える国が今、機能していない。支援が来ない。給与が出ない。装備が自腹になっている。
誰がかっこ悪いのか、という問いは、どちらかが悪いという話ではなかった。立場と実態が、どれだけ一致しているか、という話だった。立場だけがあって実態が伴っていない状態は、長く続かない。それが今、自分の目の前で起きている。
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翌日、シグはターニャから短い手紙を受け取った。宿まで届けられた。
「セルジオと一緒に採用されたよ。就業規則には週休二日、有休あり、残業禁止と書いてある。シグも来たら分かるけど、本当にちゃんとしてる。迷っているなら、とりあえず話を聞きに行くといいと思う。来なくてもいいけど、きっと後悔はしないよ。ターニャ」
手紙を読んで、シグは少し間を置いた。窓から差し込む光の中で、文字をもう一度読んだ。
就業規則。週休二日。有休。残業禁止。
それが書いてある。文書に。印刷されて。
自分が今まで所属していたパーティーには、そういう文書は一枚もなかった。ギルドの規定はあった。でも勇者パーティー内部の規則は、言葉でしか存在しなかった。誰かが「こうしよう」と言って、なんとなく続いていた。誰かが「このくらいは頑張ろう」と言えば、それが基準になった。でも誰かが言わなければ、基準がなかった。
書いてあることと、言葉だけのことは、何が違うか。
書いてあれば守られる、ということではない。ただ、書いてあれば確認できる。確認できるから、守られているかどうかが分かる。守られていなければ、問題にできる。問題にできるから、守られやすくなる。信頼は、守られた実績から生まれる。
カイトはそういうことを、当たり前に設計している人間だ。一回会っただけで、それが分かった。あの人は数字と仕組みで考える。感覚ではなく、設計する。
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その夜、シグは宿の窓から外を見た。
街が静かだった。人通りが減っていた。物価が上がっているからだ。聖王国の通貨が落ちている影響が、この街にも出始めている。店の値段表が変わっていた。馴染みの食堂が閉まっていた。先週まで開いていたはずなのに。
これが今の聖王国の現実だ。
シグは剣を鞘に収めたまま壁に立てかけた。
カイトがいる砦は、どういう場所なのか。ターニャは「本当にちゃんとしてる」と書いた。セルジオはシルヴィアとの研究ができるらしい。リナリアはそこで三ヶ月、マナ貨の管理をしている。以前自分が旅していた時には存在も知らなかった組織が、今は複数の知人が働いている場所になっている。
そこに自分は行けるのか。
行く資格があるか、という問いは正しくないかもしれない。資格ではなく、何ができるか、という問いだ。カイトは「採用基準がある」と言っていた。基準を満たせば入れる。満たさなければ入れない。それだけだ。
かっこ悪いのは俺の方か。
その言葉に今日また戻ってきた。勇者として外を旅しながら、全部が止まっていて、一人で宿に残っている。これが今の自分だ。
カイトは自分のことをかっこ悪いと思っているのか。それとも「かっこ悪いと思われることを恐れない」という意味だったのか。
どちらか分からない。でも一つだけ確かなことがある。
カイトは、数字で見える場所に立っている。自分はまだ、見えない場所に立っている。見えない場所に立ち続けることが、正しいことなのかどうかも分からなくなってきた。
「見えない場所に立つ」ことを、かっこいいと思っていた時代がある。謎めいていて、強くて、説明不要な存在。勇者というのは、そういうものだと思っていた。でもカイトと話してから、少しずつその感覚がずれている。見えない場所に立つことは、かっこいいのではなく、ただ見えないだけかもしれない。
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翌朝、シグは荷物をまとめた。
大きな荷物は少ない。剣と、着替えと、少しの金貨。勇者として持ち歩いていたものが、実はこれだけだった。
宿の帳簿に泊まり代を払った。アルベリア金貨を出したら、宿の主人が「マナ貨の方が助かります」と言った。シグはマナ貨を持っていなかった。「金貨で大丈夫ですか」と聞くと、「今日はまだ大丈夫です」という答えが返ってきた。
今日はまだ、という言葉が引っかかった。
明日は大丈夫じゃないかもしれない、ということだ。これが今の聖王国の状況だ。自分が守っているつもりだった国が、自分の金すら受け取ってもらえない状態に向かっている。
シグは宿を出た。行き先は、まだ決まっていなかった。でも足が向く方向はあった。北の方角だ。北方砦のある方角だ。まだ「行く」とは決めていない。でも行かない理由も、なくなっていた。
それで十分だと、今日は思うことにした。一歩だけ動けばいい。動いた先に、次がある。それはカイトの言葉ではなく、今日初めて自分が思ったことだった。自分で思ったことだから、信頼できる気がした。
雲の隙間から日が差し込んでいた。北の方角が少し明るかった。シグはその方向に向かって歩き出した。行き先は、まだ決まっていない。でも、足は動いている。それだけのことだが、今日は十分だった。




