第65話 勇者パーティーの限界
辺境の宿屋の食堂で、勇者パーティーは黙っていた。
シグは剣を磨いていた。セルジオは書類を読んでいた。ターニャはスープに視線を落としていた。この宿に来てから三日が経っていた。
この三日間、何かを決める話も、次の依頼を探す話も、なかった。次がどこなのかを誰も言わなかった。次があるのかどうかも、誰も言わなかった。
空気が重い。重い理由は全員が分かっていて、誰も最初に言わなかった。
沈黙を破ったのはターニャだった。
「ねえ、正直に話してもいい」
誰も止めなかった。シグが少し手を止めた。
「ポーション代が先月から自腹になってる。宿代も今月から折半だって言われた。正直、もう続けられない水準になってきてる」
シグが言った。
「国から出ているはずじゃないのか」
「出てるはずなんだけど、届いてない。聖王国の財務が詰まってるって話は聞いた。そういうことなんだと思う。今の聖王国の財政、相当ひどいらしいから」
「……それは困る」
「困ってる。それで、私は帰ろうと思う。いったん実家に帰って、状況を整理する。当面は家業を手伝いながら、次のことを考える」
セルジオが顔を上げた。
「ターニャ、それは……」
「帰るのが正しいと思う。このまま続けていても、誰も得をしない。国からの支援が止まったなら、それは国の問題であって、私たちが個人負担で勇者活動を続ける理由にはならない」
シグが少し黙った。
「……反論できない」
「できないでしょ。シグも分かってると思う。装備の維持費が出ない、宿代が出ない、ポーション代が出ない。三つ全部自腹なら、これは慈善活動だよ。私は慈善活動をするために実家を出てきたわけじゃない。それに、正直に言うと、体も限界に近い。回復のためのポーションが使えないなら、傷が蓄積するだけから」
セルジオが小さく頷いた。同意している。
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その夜、シグは部屋で一人だった。
ターニャの言葉を考えていた。反論できない、と言った。本当に反論できなかった。彼女の言っていることは正しい。支援が届かないなら、止まる理由がある。
ではなぜ自分は止まらないのか。
考えると、明確な答えが出なかった。勇者だからか。使命があるからか。でもその使命を誰が保証しているのか。国が保証しているなら、その国が機能していないとしたら。
シグは窓を開けた。外の空気が冷たかった。
カイトのことを思い出した。あの時の会話。「聖剣のメンテ代、今月いくらだ」という問い。答えられなかった。なぜ答えられなかったか。数字を知らなかったからだ。自分の仕事のコストを知らなかった。
宮廷経理に行って確認した。168万G、年間。自分という存在を維持するコストが168万Gで、それが誰かの負担になっている。そしてその負担を、今の聖王国は続けられなくなっている。だからターニャへの支援も届かなくなった。全部つながっている。
そのことを、カイトと会う前は考えたこともなかった。
シグは窓を閉めた。部屋が暗くなった。
明日、ターニャは出ていく。セルジオは残るかもしれない。自分はどうするか。
答えはまだなかった。でも三日前と今日で、一つだけ変わったことがある。「どうするか」という問いが、初めてちゃんと形になった。三日前は問いにさえなっていなかった。止まることは考えていなかった。続けることが前提だった。
今日初めて、続けることが前提ではなくなった。
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翌朝、ターニャが食堂に来た。荷物をまとめてきた様子だった。大きな鞄を持っている。冒険道具と私物が全部入っているのだろう。
「出発する」
「……そうか」
シグが言った。止めなかった。止める言葉がなかった、というより、止めるべき理由がなかった。
「シグは?」
「もう少し考える」
「……そう。でもあまり長く考えない方がいいと思う。時間が解決することと、しないことがある。今の状況は、時間が経てば経つほど選択肢が減る方向に動いているから」
ターニャが続けた。
「それと、一個だけ言っていい?」
「言ってくれ」
「……魔王軍の財務長官、面接してもらえるらしいって話を聞いた。聖王国から転職した騎士が数名行って、採用されたって。ポーション代と宿代と装備費と、全部込みの給与が出るって話だ。ちゃんと計算されてる。数字で話してくれるって言ってた人もいた」
シグが動かなかった。
「……魔王軍か」
「変な感じはするよね。勇者パーティーを辞めて魔王軍に入るって。でも今の聖王国の騎士団より制度が整っているなら、悪くないと思う。騎士が行って採用されてるんだから、剣士でも試す価値はあると思う。少なくとも面接だけなら話を聞いてくれるはずだよ」
「……財務長官か」
「そう。カイトだよ」
シグの手が止まった。ターニャは気づかなかった。
「……お前は行くのか」
「私は実家に帰ってから考える。でもシグには言っておきたかった。選択肢があるうちに知っておいた方がいいから」
ターニャが立ち上がった。セルジオも起き上がった。
「セルジオは?」
「私はもう少しここにいます。でも方向性は考え直す時期だと思っています。魔導師として、別の場所で働く選択肢も考え始めています」
「そう」
「ターニャ、気をつけて」
「ありがとう。シグも」
ターニャが出ていった。食堂の扉が閉まった。シグとセルジオだけになった。二人とも何も言わなかった。言わなくていい場面だった。
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勇者パーティーの崩壊が始まった。これはカイトが予測した事態だった。「聖王国の財政が崩れれば、勇者への支援も止まる。止まれば、パーティーの維持が難しくなる」。ターニャが去った今、その予測が現実になった。
シグは椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。
ターニャは正しいことを言っている。正しいことが全部分かる。分かっているのに、動けない理由は何か。
勇者、という言葉が頭の中に残っているからだ。勇者だから続けなければいけない、という感覚が、言葉になる前の場所に座っている。それが合理的かどうかに関係なく、そこにある。勇者に選ばれた時から、ずっとそこにある。
でも誰も「勇者を続けなければいけない」とは言っていない。国がそれを要求しているとしたら、その国が支援を止めている。つまり国も止まることを許容していることになる。
先日、カイトに言われた言葉がある。「問いの立て方が変わっている」。カイトはそう言った。
今の自分の問いは何か。「勇者として何をすべきか」という問いか。それとも「自分は今何をしたいか」という問いか。
二つの問いの答えが違う可能性がある。それを初めて、正面から考えていた。
シグは剣を手に取った。磨く習慣がある。手が動く。剣は変わらない。重さも形も同じだ。でも自分は変わりつつある。剣を持つ理由が、少しずつ問われている。
カーツが着任した砦で変わったように。ガルガンが変わったように。自分も変わり始めている。それが良いことかどうかはまだ分からない。ただ、変わることを止めることはできない気がした。
窓の外に月が出ていた。明日、ターニャは本当に行く。残るのは自分とセルジオだ。そして次に自分が何をするか、考える時間が来た。答えを出さないまま、また明日が来る。でも今日は少しだけ、昨日より答えに近い場所にいる気がした。
カイトは全部数字で考える。自分のことも数字で考えるだろう。それが怖いとは思わない。むしろ正直で、楽かもしれない、と今日初めて思った。




