第64話 魔王領の噂
砦の食堂は夕食の時間だった。
ガルガンが椅子を引いて座った。向かいにはカーツが座っていた。今日も同じ顔ぶれだ。変わらない日常の一部だが、半年前とは少し違う。食事の質が上がっている。今日のメインはシチューで、パンが二つついてくる。以前は水っぽいスープに固いパンが一個だった。椅子も前より座りやすい。食堂のテーブルが増えた。人が増えたからだ。
「最近、外から来る連中が増えたな」
カーツが言った。シチューを口に運びながら、特に深く考えた様子もなく言った。
「ああ。今月だけで何人来た」
「五、六人か。先月は三人だったからな。増えてる。来月はもっと増えそうな話もある」
「聖王国の話をしてる奴らだろ」
「そうらしい。向こうが荒れてるって聞く。通貨の話とか、物価の話とか、騎士団の話とか」
ガルガンは飯を食いながら、そういう話を聞くたびに少し考えた。聖王国の話が増えている。向こうから来る人間が増えている。向こうの事情は詳しくは知らないが、何かが変わっているのは分かる。来る人間の顔が、「逃げてきた」という顔をしている。疲れていて、でも少し希望があるような顔だ。
「俺たちが変わったから、か」
呟くように言った。
「何が?」
「聖王国から来る人間が増えているのは、こっちが何かいいものを持ってるからだろ。俺たちが変わったから」
カーツが少し考えた。
「……まあ、そうだな。給料も増えたし、飯もうまくなった。制度もちゃんとしてきた」
「以前は全然違った」
「全然違ったな。長官が来る前のこの砦の飯、食えたもんじゃなかった。スープが毎日同じで、パンが固くて」
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カーツが「うまくなったよな、このシチュー」と言った。ガルガンは「ああ」と答えた。うまいと思うが、それ以上のことは言いたくなかった。言葉にすると何か失われる気がした。
その翌日、ガルガンは砦の外の訓練場で装備の点検をしていた。
そこにシルヴィアが来た。シルヴィアは研究棟に引きこもっていることが多いが、たまに外に出てくる。今日は書類を持っていた。
「ガルガン、少し話がある」
「なんだ」
「研究志願者が増えている。聖王国から来た者が数名、魔導研究に加わりたいと言っている。採用するかどうかの判断が必要だ」
「長官に聞いたか」
「書類を出した。長官は採用条件を設けてくれと言っていた。私が条件を出す必要がある」
「お前が条件を出すのか」
「研究の現場のことは私が一番分かっている。お前たちが戦闘の条件を決めるように、私は研究の条件を決める」
ガルガンはそれが理屈に合っていると思った。
「で、どんな条件を出すつもりだ」
「基礎的な魔導知識があること。独立した思考ができること。結果を数字で出せること。この三点だ」
「三点か。簡単そうに聞こえるな」
「難しい。三点全部ができる人間は少ない。特に三点目が難しい。感覚でやってきた人間は、結果を数字で出すことに慣れていない。聖王国の研究者もそういう人間が多い。魔法を使えても、効果を測定して比較する訓練を受けていない」
「……長官みたいな人間が増えると困るか」
「長官は別次元だ。あのくらいできなくていい。ただ、最低限の基準は必要だ。基準がなければ、役に立たない人間を受け入れることになる。それはお互いに不幸だ」
「お前が言うと厳しい感じがするな」
「厳しくない。フェアだ。基準を満たせば入れる。満たさなければ入れない。それだけだ」
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数日後、ガルガンが廊下を歩いていると、新しく来た人間が二名立ち話をしていた。聖王国の騎士だった者と、商人だった者だ。
「……ここに来て二週間になる」
「どうだ」
「……思ったより、普通だ」
「魔王領だから怖いとか、そういうのはあったか」
「……正直あった。魔王軍という名前だから、何か異様なものを想像していた。でも普通の職場だ。規則があって、仕事があって、給与が出る。ミーティングがあって、報告書がある。むしろ前の職場より整っている。細かいところまでちゃんとしている」
「聖王国の騎士団がひどかっただけだろ」
「それはそうだが……ここまで違うとは思わなかった。向こうには就業規則がなかった。残業を断ると怒られた。給与が払われるかどうかも分からなかった」
「……ここには就業規則がある」
「そう。残業禁止が規則で書いてある。最初見た時は冗談かと思った」
ガルガンはその会話を聞きながら通り過ぎた。止まって声をかけることもできたが、しなかった。
聞くともなしに聞いていたが、少し複雑な感情があった。自分は最初からここにいた。ひどい時代も知っている。赤字が300%で、装備が雑で、食事が最悪で、先のことが何も分からなかった時代。あの時と今を比べれば、今の方がはるかにいい。
でも新しく来た人間には「普通の職場」に見えるらしい。
それが正しい状態だ、とガルガンは思った。普通に見えることが、普通になったということだ。自分たちがひどい状態から抜け出したのではなく、ひどかった状態が今は存在しない。それが変化の正しい形だ。
ガルガンは訓練場に戻った。装備の点検の続きがある。普通の仕事が、普通にある。
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その夜、ガルガンはカイトを捕まえた。執務室の前で待っていると、カイトが書類を持って出てきた。
「長官、少しいいか」
「何ですか」
「聞いてもいいか。最近、外から来る人間が増えている。このまま増え続けると、どうなるんだ」
カイトが少し考えた。
「受け入れ能力の限界まで来たら止めます。今は余力があるので続けます」
「余力の基準は何だ」
「住む場所と仕事と食事が確保できること。今はまだ余裕があります」
「……なぜそんなに受け入れるんだ」
「人が増えれば仕事が増えます。仕事が増えれば収入が増えます。受け入れることはコストではなく投資です」
「投資か」
「はい。ただし無制限ではない。ルシフェラ様から受け入れ基準を作れと言われています。基準を作って、基準を満たす人間だけを受け入れます」
ガルガンは少し考えた。
「……俺たちも最初は基準があったのか」
「ありましたよ。戦闘能力と服従の意思、の二点でしたが」
「今は?」
「今は七点あります。増えました。住居管理の能力、財務報告の読解能力、協調性の評価基準なども加わっています」
「増えたのか」
「組織が複雑になると、必要な基準が増えます。それは成長の証拠です」
「……お前みたいな長官が来なければ、そんな基準を考える人間もいなかったな」
「誰かが作らなければ存在しないものがあります。存在しなければ、必要かどうかも分からない」
「……哲学みたいな話だな」
「実務の話です」
ガルガンが少し笑った。カイトが書類を持ったまま「他に質問はありますか」と言った。ガルガンは首を振った。
「いや、それだけだ」
「では失礼します」
カイトが廊下を歩いていった。ガルガンは見送って、少し立ち止まった。
俺たちが変わったから、外から人が来る。変わったのは砦だけでなく、自分たちも変わった。戦い方だけでなく、考え方が変わった。それがどういうことか、言葉ではうまく言えないが、今夜少しだけ分かった気がした。
長官が来る前の自分は、今の自分の仕事を想像できなかっただろう。採用基準があることも、受け入れ能力に上限があることも、投資という言葉で人を考えることも。今はそれが当たり前に聞こえる。それが変わった、ということだ。
ガルガンは歩き出した。明日の仕事がある。普通の明日がある。それが今は、一番いいことだと思った。




