第63話 逃げ出す貴族たち
王城の謁見室が、また静かになっていた。
エドワードが席に着いた時、左右に並ぶはずの貴族の数が先週より減っていた。数えた。十四人いたはずが、今日は九人だ。五人足りない。
足りない場所が目に見える形で空いている。椅子だけがある。人がいない椅子がある。いつもならそこに誰かが座っている。今日は違う。エドワードはその空白を見た。見たくはなかったが、見えてしまった。
「体調不良の者が多いのか」
側近が少し間を置いた。
「……ご体調の優れない方が数名、また地方への視察に出ている方が数名と報告を受けております」
「同時期に?」
「……はい」
エドワードは納得できなかったが、追及しなかった。追及すれば何が出てくるか、薄々分かっていたからだ。
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謁見が終わった後、マルバスが廊下を歩いていた。
後ろから足音が近づいた。振り返ると、フォースター侯爵が来た。今日の謁見には来ていなかった貴族だ。体調不良の届け出を出していた一人だが、城の中にいたらしい。
「マルバス殿」
「これは侯爵。今日はいらっしゃらないと聞いていましたが」
「……少し話がしたかった。場所を変えよう」
二人は人気のない小部屋に入った。フォースター侯爵が扉を閉めた。
「……マルバス殿は、今後の見通しをどう見ている」
マルバスは即座に答えなかった。相手がどこまで踏み込んでくるかを測った。
「……どういう意味でしょう」
「とぼけなくていい。アルベリア金貨が落ちている。物価が上がっている。騎士団が機能していない。このままでは聖王国は――」
「……侯爵」
マルバスが静かに遮った。
「その話は、場所と時期を選ばないといけません」
「……だから場所を変えたんだが」
「時期の問題です。まだ時期ではない」
侯爵が少し目を細めた。
「……マルバス殿は、すでに動いているのか」
「私は常に陛下への忠誠を誓っております」
侯爵が少し笑った。
「……さすがだ。言葉で教えてくれとは言わない。ただ、私は独自に動く。その旨は知っておいてほしかった」
「……承知しました」
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その夜、城下に近い宿に一人の貴族が荷物を持って来た。グレイ子爵という人物で、王城の東側に屋敷を持つ中堅貴族だ。随行者は最小限の二名。荷物は少ない。持ち出せる分だけを持った、という量だった。
宿の主人が「どちらへ?」と問いかけた。
「ラーゴスです」
「……ラーゴスですか」
「商用で少し」
宿の主人は何も言わなかった。でも三日前にも似たような答えを言った客がいた。その前の日にも一人いた。みんなラーゴスに行くと言う。みんな荷物が少ない。みんな「商用で少し」と言う。
宿の主人には分からなかったが、それぞれの理由があった。財産の一部をすでに換えてある人間。ラーゴスに知人がいる人間。ただ漠然と、王城の近くにいることが不安になってきた人間。理由は違っても、行き先は同じだった。ラーゴス、そして魔王領。通貨が機能している場所。
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翌朝の謁見室。
今日は八人だった。昨日より一人減っていた。
エドワードが壇上から下りる途中、廊下の窓から外を見た。城の前庭に、馬が数頭待機していた。見覚えのある馬だった。誰かの出立の準備だ。その「誰か」が誰であるか、エドワードには分からなかった。聞く気にもなれなかった。
エドワードが壇上から見渡した。顔が変わっていた。昨日いた者がいない。昨日いなかった者もいる。席がぱらぱらとまばらで、並びが整っていない。
「……何か起きているのか」
誰も答えなかった。答えることが難しい問いだった。「貴族が逃げています」とは言えない。言えば確認されて、確認されれば全部出てくる。
エドワードが隣に立つ側近に小声で言った。
「今日来ていない者の名前を出してくれ」
「……はい」
側近が手元の書類を見た。今日欠席の者の名を小声で読んだ。七名の名前が並んだ。七名全員が「体調不良」または「地方出張」という届け出を出していた。
「七名が体調不良、か」
「……はい」
「なぜ同じ時期に」
側近は答えなかった。答えを知っていたかどうかは分からない。ただ、知っていたとしても言える内容ではなかった。
エドワードが少し黙った。黙りながら、窓の外に目を向けた。首都の通りが見えた。人が少ない。店が閉まっているところが目立つ。賑やかだった通りが、静かになっている。
「……外が静かだな」
「……はい」
「なぜ静かになった」
「……物価の上昇により、市民の外出が減っているかと」
エドワードが頷いた。「そうか」と言った。それ以上は聞かなかった。
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マルバスはその場に立っていた。
エドワードが側近に話しかけているのを見ながら、内心で計算した。フォースター侯爵は独自に動くと言った。グレイ子爵はすでに動いた。他にも三名が昨日今日で城を出た話を聞いた。欠席した七名のうち、少なくとも半数は戻ってこないだろう、とマルバスは推測した。
崩壊が貴族層に届いた。
市場から始まって、物価に出て、民衆に届いて、今日から支配層に達した。連鎖の最終段階だ。ここまで来ると、残る者と出る者の二種類になる。残る者は忠誠か、他に行き場がないか、どちらかだ。
マルバスは自分がどちらかを考えた。
どちらでもない。次を考えている。行き先はある。時期を見ている。エドワードへの忠誠は最初から建前だった。生き残ることが目的だった。その目的に照らして、今何をすべきかを計算している。
「マルバス」
エドワードが突然呼んだ。
「はい」
「今日の欠席者について、何か知っているか」
一瞬だけ、計算した。
「……把握していません。ただ、最近の物価の動きが民心に影響を与えているのかもしれません」
「民心、か」
「……はい。庶民だけでなく、貴族も生活の基盤の変化を感じれば動くことがあります。一時的なものかもしれませんが」
「一時的なものか」
「……そう思います」
そう思っていないが、そう言うのが今は正解だ、とマルバスは判断した。エドワードは「一時的なもの」という言葉を信じたがっている。信じることで今日を乗り越えようとしている。その願望に反する情報を今ここで出すことは、誰の利益にもならない。少なくとも今日のマルバスの利益にはならない。
エドワードが頷いた。マルバスの答えを信じたのか、信じたふりをしたのか、どちらかだ。どちらであっても、今日の謁見はこれで終わるだろう。
謁見室に光が差し込んでいた。外は晴れていた。世の中の動きとは関係なく、天気は晴れだった。
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その日の夕方、マルバスは書斎で一枚の書類を書いた。
宛先はラーゴスの物流ギルド。内容は「北方砦への取次の依頼」だった。
マルバスは筆を止めた。
この書類を出すかどうか、しばらく考えていた。出せば方向が決まる。引き返せなくなる。ただし出さなければ、自分の選択肢は減り続ける。今の聖王国は縮んでいる。縮む船に乗り続けることは正しい判断ではない。
書類を畳んだ。封をした。使者を呼んだ。
「これをラーゴスの物流ギルドに届けてくれ。二日以内に」
「……承知しました」
使者が出ていった。部屋が静かになった。マルバスは窓の外を見た。王城の灯りが見えた。まだそこにある。でも、それがいつまで続くかは、もう自分には分からなかった。
そして自分にとって、それはもう関係のない問いになっていた。自分が次に行く場所で、次に何をするか。それだけを考えていた。王城の灯りは遠くなっていく。自分が近づいていくのではない。王城の方が遠くなっていくのだ、とマルバスは思った。




