第62話 ハイパーインフレの朝
聖王国の首都市場、朝の開店時間。
パン職人のクラウスは今日も早起きして窯に火を入れた。小麦の仕入れ値が先週より上がっていた。先々週よりも上がっていた。先月と比べると、もう笑えない数字になっていた。
「また上がってる」
隣の台で同じくパンを焼いていた妻のルーナが言った。
「分かってる。でも仕方ない。仕入れ値が上がれば値段を上げるしかない。薪も上がった。大家からも来月から賃料を上げると言ってきた。全部が一緒に動いている」
「お客さんが来なくなる」
「安く売れば俺たちが潰れる。どっちかしかない」
ルーナが黙った。それ以上言い返す言葉がなかったからだ。
クラウスは計算した。小麦粉の今日の仕入れ値。薪の値段。店の賃料。全部足した。一個のパンを売るためにかかるコストを出した。利益が残る最低の値段を出した。
先月まで10Gだったパンが、今日は15Gにしなければ成り立たない。
「……15Gか」
声に出してみた。重い数字だった。先月10G、先々月は9G、その前は8Gだった。一年前は7Gだった。毎月少しずつ上がってきていたが、ここ二ヶ月の上がり方が急だった。
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市場が開いた。クラウスの店に最初の客が来た。
「パンを一個ください」
「15Gになります」
客の足が止まった。
「……先週は10Gでしたよね」
「すみません。小麦が上がりまして」
客が少し考えた。財布を出した。中を確認した。表情が固くなった。
「……今日は、やめておきます」
そう言って、去っていった。
クラウスは言葉が出なかった。追いかけることも、値段を下げることもできない。下げれば今度は自分が赤字になる。申し訳ない、という気持ちが胸にあった。でも申し訳なさは値段を下げる理由にはならない。
次の客が来た。
「パンを……いくらですか」
「15Gです」
「……高いですね」
「すみません」
「10Gなら買えたんですけど」
「すみません」
その客も去った。
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昼過ぎまでに売れたパンは、先月の半分だった。
クラウスは店の前に座って、市場を見た。他の店も似たようなものだった。肉屋の価格表が書き直されていた。野菜の値段を示す札が昨日より高い数字になっていた。どこもかしこも値段が上がっている。客の足が止まる場面があちこちで見えた。財布を開いて、中を確認して、首を振って戻っていく人。それが今日の市場の光景だった。
なぜこうなった。
クラウスは昔から政治には興味がなかった。市場で働いて、パンを焼いて、食べていければそれでいいと思っていた。王様が誰であっても、自分には関係ないと思っていた。誰かが言っていた話を思い出した。聖王国の騎士団が給与を払えていないとか、アルベリア金貨の信頼が落ちているとか。市場に来る商人たちの間で、そういう話が増えていた。でも自分には関係ない話だと思っていた。
今日、それが関係ある話になっていた。
「クラウス」
隣の魚屋のヤンが声をかけてきた。
「どうだ」
「さっぱりだよ。君のところは」
「同じだ。今日の売上は先月の六割に届かない」
「六割……」
「みんな金を持っていないのか、使いたくないのか、どっちかだ。どっちにしても同じことだけど」
ヤンが少し下を向いた。
「……先週、港でマナ貨を使った商人の話を聞いたか」
「マナ貨?」
「ラーゴスに行くとマナ貨というものが使える。アルベリア金貨より安定していて、使える店が増えているって話だ」
「……ラーゴスの話だろ」
「そうだよ。でも首都でも使えるようになればという話をしている商人がいた」
クラウスは少し考えた。マナ貨という言葉は聞いたことがあった。詳しくは知らない。でも今使っているアルベリア金貨の信頼が落ちているなら、代わりのものが必要になる気はした。
「……使えるならあった方がいいな」
「俺もそう思う。ラーゴスでは物価が安定しているって話も聞いた。向こうの商人は困っていないらしい」
「……こっちは困ってるけどな」
「そういうことだ」
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夕方、店を閉める前に、クラウスは今日の売上を計算した。
先月の同じ日の記録と比べた。売上の枚数は減っている。値段は上がっている。でも実際の収入は先月と変わらない。それどころか仕入れ値が上がった分、手元に残る金は少なくなった。値段を上げた意味が、半分しかない。値段を上げなければもっと残らなかったわけだが、上げても十分ではなかった。
働いているのに、手元が減っている。
これがインフレというものだ、とクラウスは漠然と思った。言葉は知らないが、感覚として分かった。お金の価値が変わっている。同じ枚数で買えるものが減っている。毎日同じように働いているのに、毎日少しずつ貧しくなっていく感覚。それが恐ろしかった。自分の努力が関係ないところで、自分の生活が削られていく。
ルーナが店の後片付けをしながら言った。
「明日も値段を上げないといけないかもしれない」
「……そうかもしれない」
「お客さんがもっと来なくなる」
「……それが困る。でも下げる余裕もない」
ルーナが少し黙った。片付けの手が止まった。何か言いたそうな顔をしていた。しばらくして言った。
「……ラーゴスに行った知り合いが、向こうは物価が安定しているって言ってた」
「ラーゴスは商人の街だろ」
「魔王領に近い街だからって話をしてた。魔王軍の財務長官がどうこうって」
「魔王軍の財務長官が、物価を安定させているのか」
「詳しくは分からない。でもラーゴスではマナ貨というものが流通していて、アルベリア金貨より使い勝手がいいって」
クラウスは窓の外を見た。暗くなってきた首都の通りに、人が少ない。いつもなら夕食前に買い物をする人間で賑わうはずの時間だ。
「……マナ貨か」
名前だけは覚えることにした。何かを知らないことは、知る必要が出た時に困る。今日その名前を覚えておけば、明日それが必要になった時に動けるかもしれない。
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翌朝、クラウスは市場に来る前に隣の路地を通った。壁に小さな紙が貼ってあった。手書きで「マナ貨取扱あり。ラーゴス方式」と書いてある。誰が貼ったのかは分からない。でも昨日まではなかった紙だ。
首都でもマナ貨の話が出始めている。
クラウスは店を開ける前にもう一度数字を計算した。今日の小麦の仕入れ値。今日売らなければならないパンの数。最低限必要な売上。
計算してみると、やっぱり15Gでなければ成り立たない。
窯に火を入れた。今日も同じ仕事をする。でも昨日と同じではない何かが、市場の空気にあった。人々の会話の中に「マナ貨」という言葉が増えていた。聖王国の通貨が信用されなくなる、という話が、昨日より具体的になっていた。
クラウスには通貨政策のことは分からない。でも一つだけ分かることがあった。
お客さんが買えるかどうかが大事だ。それだけだ。使える通貨があって、その価値が安定していれば、パンが売れる。それだけのことだった。
「……マナ貨が使えるなら、使えた方がいい」
独り言のつもりが、少し声に出た。ルーナが振り返った。
「何? マナ貨がどうかした」
「いや。使えるならあった方がいい、と思っただけだ」
「……そうだね」
窯の温度が上がってきた。パン生地を入れる時間だ。今日も焼く。今日もお客さんに売る。それが仕事だ。世の中がどう変わっても、自分にできることはそれだけだ。使える通貨が変わっても、作るパンは変わらない。値段がどうなっても、買いに来てくれる人が一人でも増えればいい。それだけのことだ、とクラウスは思った。




