第61話 アルベリア金貨の終わり
空売り作戦を開始してから、三週間が経った。
ラーゴスに来たカイトが最初に見たのは、街の通りに増えた貼り紙だった。
「アルベリア金貨でのお支払いはご遠慮ください」
布商人の店先にあった。隣の食料品店にも同じ紙が貼ってあった。そのさらに隣、酒場の入口にも。
二週間前に来た時はまだ一部だった。今日は通りの半分以上がそうなっていた。
「ゴル、確認してください。両替レートは今どの水準ですか」
「……フォルカからの最新報告では、基準値から12%の下落です。先週の7%から、この一週間でさらに5%下がっています」
「自己加速が始まった」
「……はい。一度動き出すと止まりにくい、と言っていた通りになっています」
カイトは貼り紙を一枚だけ手で触れた。紙の質感がある。実態がある。数字が現実になった瞬間だ、と思った。
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物流ギルドでベルドが待っていた。
部屋に入ると、ベルドがすぐに立ち上がった。珍しい。ベルドは普段、人を待たせてから会いに来る。今日は違う。
「……もうアルベリア金貨では仕入れが難しくなってきた。マナ貨に本格的に切り替えたい」
「準備が整っています。正式な交換窓口を物流ギルドに設けます」
「……いつから設置できる」
「今日から設置します。書類は今日中に用意します」
ベルドが少し息を吐いた。緊張していたのかもしれない。
「……良かった。実は先週から、金貨での仕入れを断られた件が三件あった。マナ貨があれば回避できた話だ」
「今後は設置された窓口で随時交換できます。レートは1マナ貨=アルベリア金貨1.3倍を維持します」
「……今の状況でその数字か。もはやマナ貨の方が遥かに有利だな」
「最初から信用の設計をしたためです」
ベルドが頷いた。
「……あなたは、最初からこうなることを見越していたのか」
「見越していました。ただし、この速度は予測より少し速かった」
「……それは誰のせいだ」
「エドワードの政策の精度が、私の想定より低かったです」
ベルドが少し笑った。
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ベルドとの話を終えて、カイトはフォルカに交換窓口の設置を依頼した。その日の午後には窓口が開いた。初日に交換に来た商人が七名。翌日には十二名。その次の日には並ぶ人間が出た。
情報は速い。良い情報は、悪い情報よりも速く広がる場合がある。「使える通貨がある」という情報は、「使えない通貨がある」という情報よりも速く広がった。
カイトはフォルカに「一週間後に処理能力の報告を出してください」と言ってから、窓口の前を通った。商人が数名並んでいた。手に持っているのはアルベリア金貨だ。それをマナ貨に変えようとしている。半月前には「使えるかどうか分からない通貨」だったものが、今や「信頼できる方」になっていた。
信用は一度ついてしまえば、それ自体が力を持つ。
カイトはそのことを知っていた。設計した通りだ。ただ、設計が現実になった時の感覚は、数字だけでは分からない何かがあった。
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聖王国の王城では、空気が変わっていた。
謁見室に集まる貴族の数が、一週間前より少ない。体の不調を理由に欠席する者、地方の視察を理由に不在にしている者。誰も直接は言わないが、距離を置いていることは明らかだった。
増税が民衆の反発を生んだ。禁止令が物流を詰まらせた。給与遅配が騎士の士気を落とした。そのすべての結果が「国王の判断」として積み上がっている。誰かと一緒にいることが、自分の評価に影響すると感じれば、人は距離を置く。それが政治の論理だ。
エドワードがそのことを理解していたかどうかは分からない。ただ、謁見室が静かになっていることには気づいていた。
「……なぜ、誰も来ない」
側近は答えなかった。答えることが難しかった。「みなさん、陛下から距離を置いています」とは言えない。言えば自分も何らかの形で責任を問われるかもしれない。
エドワードが窓を見た。王城の外に広がる首都の街並みが見えた。以前はあの通りに活気があった。今日は人が少ない。行き交う人が少ない、のではなく、通りに出ている商人が少ない。店を閉めているところが目立つ。
「……通りが静かだな」
「……ラーゴスの交易に影響が出ており、物流が減少しているためかと」
「改善されるのか」
「……現在、担当の者が検討中でございます」
検討中、という言葉は、何も具体策がない時の言葉だ。エドワードはそれを知らなかった。
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マルバスはその頃、別の部屋にいた。
書類を持った使者が来た。懐に入れると、静かに立ち上がった。
エドワードを守る必要はない。次を考えよう。
マルバスの内心にある言葉は、もう数日前から決まっていた。ただ、実行のタイミングを計っていた。今日、最後の書類が届いた。自分の財産の移転が完了した。アルベリア金貨で持っていたものを、少しずつマナ貨に変換していた。誰にも分からない形で、少しずつ。
準備は整った。
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カイトはラーゴスから砦に帰る馬車の中で、記録書に書き込んだ。
「マナ貨本格移行窓口、ラーゴス物流ギルドに設置完了。初日交換者7名。翌日12名。三日目は列。アルベリア金貨両替レート:基準値から12%下落、自己加速フェーズに入った」
次のステップを書いた。「窓口の処理能力の確認。シルヴィアへの追加製造依頼。流通量のモニタリング。ベルドとの定例報告設定」
馬車が揺れた。窓の外を見た。砦に向かう道の両側に木が続いていた。季節が変わっていた。着任してからずいぶん時間が経った。
最初の帳簿を開いた時のことを思い出した。赤字が300%で、説明がなく、誰も経緯を知らなかった。聞いても答えられる者がいなかった。あの状態から始めて、ここまで来た。
これが第1章から始まった仕事の一つの節目だ。赤字が300%だった財務部が、今やラーゴスの通貨秩序に影響を与えるところまで来た。ただし節目は終点ではない。崩壊させることが目的ではない。崩壊した後に何を作るか、それが本当の仕事だ。ここまで来られたのは次のステップに向けた準備が整ったからだ。次を動かすのが今の仕事だ。
「……長官」
ゴルが向かいの席から言った。
「何ですか」
「……今日のラーゴスを見て、長官はどう感じましたか」
「設計通りに動いている、という確認ができました」
「……感慨はありませんか」
「感慨というより、次のことを考えています。設計が動いたなら、次の設計を始める必要があります」
「……長官らしいです。感慨を感じる間もなく次を見ている」
「ゴルはどう感じましたか。正直に言っていいですよ」
「……ゴルは、少し感動しました。貼り紙が増えていたのは、最初は怖い感じがしましたが、マナ貨の窓口に並ぶ人を見たら、なんか良かった感じがしました。皆さん、困っているけど、来る場所があるって分かった顔をしていました」
「良かった感じ」
「……はい。人が困っているから並んでいるわけですが、困った時に来られる場所があるのが良かった、という感じです」
カイトは少し考えた。
「それは財務部の仕事の本質に近いです」
「……本当ですか」
「困った時に来られる場所を設計するのが財務の役割の一つです。ゴルの感覚は正しい」
「……ゴルは財務の仕事をしていて良かったと思います。戦闘の仕事も大事でしたが、こっちの方が合っている気がします」
「その感覚は大事にしてくれてください」
「……長官に言われると、本当にそう思えます」
ゴルが「……ありがとうございます」と言った。少し嬉しそうだった。




