第60話 信用の崩壊
空売り作戦を開始してから、ちょうど二週間が経った。
カイトは執務室で書類を確認していた。ゴルがラーゴスからの速報を持って来た。
「長官、ラーゴスの両替レートの報告が入っています。アルベリア金貨の両替レートが、基準値から3%下がりました」
カイトはペンを置いた。
「予定より速いですか、遅いですか」
「……予定より少し速いです。二週間で3%は、想定では三週間かかると見ていました」
「次は5%。その次は7%。7%を超えたところで自己加速が始まる。その後は止まらなくなる」
「……止まらない、というのは」
「レートが下がれば、持っている人間が先に換えようとする。換えようとする人間が増えれば、さらにレートが下がる。逃げようとすることで崩壊が加速する。これが信用崩壊の構造だ」
ゴルが少し目を大きくした。
「……それは怖いですね」
「設計通りです」
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同じ頃、ラーゴスの両替商の間では話が広まっていた。
「聖王国の騎士団が二ヶ月分の給与を払えていないらしい」「兵士の装備が自腹修繕になっている」「それだけ財政が苦しいということだ」「なら金貨の裏付けになっている軍事力が、実際にはどのくらい機能しているか分からない」
誰かが言い出した。「交換レートを少し下げた方がいいかもしれない」
それが複数の両替商の間で同時に起きた。
独立した判断が、同じ方向を向いた。情報が正確であれば、合理的な判断をする人間は同じ結論に向かう。
ベルドが初めにレートを下げた。一枚あたりの下げ幅は小さい。でもその一手が、他の商人への信号になった。「ベルドが動いた」という事実が、ラーゴスの両替市場全体に伝わった。ベルドは慎重な商人として知られていたからだ。慎重なベルドが動いたなら、自分たちも動く理由がある。
三日後には、ラーゴスの七割以上の両替商が同じ方向にレートを動かしていた。
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聖王国の王城では、別の話が進んでいた。
エドワードが廊下を歩いていた。今日は視察だ。国庫の状況を確認するために経理担当者を呼んで報告を受けた後、兵器庫の確認に行く予定だった。報告の数字は芳しくなかった。税収は増えているはずなのに、支出の方が増えていた。どこかで何かが間違っている。そう思っているが、どこが間違っているのかが分からない。
廊下を歩きながら、側近に話しかけた。
「先日の鎧の修繕を、あの職人に頼んだか」
「……申し訳ありません。職人から連絡がありまして」
「なんだ」
「……アルベリア金貨では受けられないと。最近、商人の間でアルベリア金貨の受取を渋るところが出てきているようで、その職人も同じ判断をしたということで」
エドワードが立ち止まった。
「この鎧の修繕代が……払えない?」
「払えない、というより、金貨での支払いを断られたということで」
「なぜ断られる。金貨は金貨だろう」
「……その職人が言うには、ラーゴスの両替商がレートを下げ始めているので、金貨の価値が以前より不安定になってきているとのことで」
エドワードが固まった。
「ラーゴスが、金貨を……」
「……はい」
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カイトがラーゴスから入ってきた次の報告を読んでいる頃、エドワードは執務室で書類を広げていた。
報告書が並んでいた。税収の減少。物流量の低下。騎士団の士気の低下。そして今日来た話。ラーゴスで金貨のレートが下がっている。
「なぜこうなる」
エドワードが壁に向かって呟いた。側近は答えない。答えられない問いだからだ。
なぜこうなるか。税を上げた。取引を制限した。給与が遅れた。それぞれに理由がある。税を上げたのは財源が必要だったから。取引を制限したのは不当な流出を防ぐためだ。給与が遅れたのは一時的なことだ。
どれも間違っていない。なぜこうなる。
マルバスが近づいてきた。
「……陛下、ラーゴスの件ですが、今は動揺する必要はないかと存じます。一時的なものでしょう」
「そうか。一時的なものか」
「……はい。金貨の価値は変わりません。商人たちが不安になっているだけです。時間が解決します」
「……そうか。時間が解決する」
エドワードが頷いた。側近も頷いた。マルバスが少し視線を下げた。
時間が解決する、という言葉は、何も解決しない時の言葉だ。マルバスはそれを知っていた。ただ今は、知らなくてよい場面だと判断した。
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北方砦では、カイトが計算書を更新していた。
2週間で3%。このペースが続けば、4週間後には7%を超える。7%を超えたところで自己加速が始まる。1ヶ月後には10%超の可能性がある。
聖王国の財政は粉飾だ。軍事力という見せかけの裏付けがなくなれば、通貨はゴミになる。
それが今、起きている。
着任した日のことを思い出した。帳簿を開けて、数字を見て、これは機能していないと分かった時の感覚。あの時から始まっていた。数字は嘘をつかない。見えていなかっただけで、構造はずっとそこにあった。今はその構造が崩れ始めている。そして崩れた後に、別の構造が必要になる。それがマナ貨だ。
カイトは計算書に書き込んだ。
「ゴル、マナ貨の追加製造はどの段階ですか」
「……シルヴィアから報告が来ています。追加で500枚の製造が完了。ラーゴスの物流拠点に送付済みです」
「受け取り確認はとれていますか」
「……フォルカが確認済みです」
「よかった。次の段階に入ります。ベルドに連絡してください。正式な交換窓口を物流ギルドに設ける話を前進させます」
「……了解しました」
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夕方、ゴルが少し考えながら言った。
「……長官、今日起きていることは、長官が計画した通りですか」
「ほぼ計画通りです。速度が少し予測を上回っています。それはエドワードの政策の失速が予想より早かったためです」
「……エドワード国王が、もっと上手くやっていたら、こうはならなかったですか」
「適切な対応があれば、遅くなった可能性はあります。ただし、構造の問題は遅かれ早かれ出てきます。タイミングの問題でした」
「……長官は、エドワード国王のことを憐れんでいますか」
カイトが少し間を置いた。
「憐れむ、という感情は特にありません。ただし、適切な情報と適切な判断があれば、こうはならなかった、という事実はあります」
「……それは、残念だということですか」
「そうかもしれません。正確には、もったいないと思います」
「……もったいない?」
「間違いは修正できます。修正されなかったのは、修正できる機会があったのに、できなかったということです。それはもったいない」
ゴルが少し考えてから「……長官らしい考え方です」と言った。
カイトは計算書を閉じた。今日の作業は終わりだ。空売りは機能している。二週間後にまた確認する。
ゴルが片付けをしながら言った。
「……長官、今日の報告を聞いて、ゴルは少し感慨があります」
「どういう感慨ですか」
「……長官が着任した時、赤字が300%だったのを覚えています。あの時から今まで、ずっと数字を動かしてきました。今日、その結果として聖王国の通貨レートが動いたと聞いて、ゴルは長官と一緒に仕事をしてきてよかったと思いました」
カイトが少し止まった。
「ありがとうございます」
「……長官が礼を言うのは珍しいですね」
「感謝すべき時に言います」
「……ゴルも感謝しています」
蝋燭を一本ずつ消した。部屋が暗くなった。外の空に星が出ていた。




