第59話 空売りの準備
計画書の最後のページが埋まった。
カイトは一度ペンを置いた。机の上に書類が並んでいた。聖王国の騎士団の給与遅配データ、アルベリア金貨の市場流通量の試算、ラーゴスの両替商から得た金貨の受取拒否件数の推移。これまで集めてきた数字が一枚の計画書に集約されていた。
ここまで来るのに時間がかかった。転移してから財務長官として着任するまでの混乱。第1期の赤字改善。第2期の対外戦略。暗殺未遂。マナ貨の設計と試験交換。騎士の転職対応。シグとの再会。すべてがこの一枚の計画書に向けた準備だったともいえる。
「空売り作戦、計画書」
タイトルを書いた。
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内容は三段構成になっていた。
第一段:騎士団の給与遅配・装備劣化・兵力の実態数値を、ラーゴスですでに公知になっている情報として整理し、両替商に正式に提供する。「聖王国の軍事力の実態」を市場が判断できる形にする。情報の正確性が重要だ。誇張すると信頼を失う。事実だけを出す。
第二段:ラーゴスの主要な両替商が自発的にアルベリア金貨の両替レートを引き下げる。カイトが直接操作するのではなく、情報を受けた市場が自発的に動く形にする。カイトの関与は情報の提供に留まる。市場が動けば、追随する両替商が増える。連鎖が始まれば、止まりにくい。
第三段:レートが一定以上下がった時点で、マナ貨の本格交換窓口を物流ギルドに設ける。移行が自然な形で起きる準備をする。商人が自発的に移行を選ぶ環境を作ることが目的だ。
「ゴル、確認してください」
計画書をゴルに渡した。ゴルが読んだ。一読した後、もう一度読んだ。
「……これは合法でありますか」
「聖王国の法律の外でやる。問題ない」
「……法律の外、というのは、聖王国の法律に違反しないということですか」
「聖王国の法律は聖王国の域内に適用されます。ラーゴスは独立した交易都市です。ラーゴスの両替商が独自の判断でレートを変えることに、聖王国の法律は適用できない」
「……なるほど。では、魔王領の法律では?」
「情報の提供は業務行為です。問題ない」
「……ゴルは、情報を出すだけでこんなに大きなことが起きる、というのが少し怖い感じがします」
「怖い?」
「……剣で戦うより、影響が大きい気がするので」
「そうかもしれない。ただし、誰も傷つかない」
ゴルが「……なるほど」と言った。まだ少し心配そうな顔だったが、書類を返した。
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翌日、ルシフェラに計画書を持参した。
謁見室で、ルシフェラが座っていた。通常の報告の時間だ。カイトが計画書を提出した。
「今週の財務報告と合わせて、新しい計画書を提出します。空売り作戦の計画書です」
「……読む」
ルシフェラが計画書を取り上げた。片手で持って、もう一方の手を顎に当てながら読んだ。カイトは待った。
しばらくして顔を上げた。
「……戦わずに崩すのか」
「戦争より安いです」
「……どのくらい安い」
「今回の作戦に直接かかるコストは情報整理と書類作成の人件費だけです。対して通常の軍事作戦を実施した場合の最低コストは兵站・装備・人員の総計で試算すると約300万G以上になります。作戦の規模によりますが、今回の手法はその比較にならない水準です」
ルシフェラが少し目を細めた。
「……続けよ」
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「内容を補足します。今回の作戦は三段階です。一段目が情報提供。二段目が市場の自発的な反応。三段目がマナ貨への移行促進。こちらが直接操作するのは一段目だけです。二段目と三段目は市場と民衆が自分で動きます」
「……それで崩れるのか」
「崩れます。信用の崩壊は、一度始まると止まりにくい。最初の引き金は小さくていい。今の聖王国の通貨信用はすでに内部で弱っています。そこに適切な情報を入れれば、連鎖が始まります」
「……民衆はどうなる」
カイトは少し間を置いた。
「通貨の信用が崩れると、物価が上昇します。聖王国の民衆の生活が一時的に苦しくなります。ただし、マナ貨への移行が速ければ、それを短縮できます。移行が遅ければ、混乱が長引きます。そのためにマナ貨の準備を先に整えています」
「……民衆を犠牲にするわけではないのか」
「できる限り短縮します。そのための計画です」
ルシフェラが書類を置いた。
「……承認する」
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「一点、別の確認があります」
「何だ」
「今後、魔王領への移住希望者が増える可能性があります。聖王国の通貨が崩れた場合、住む場所や仕事を求めて魔王領に来る人間が出ます。受け入れ体制を整えてよいですか」
ルシフェラが少し考えた。
「……採算が合うならば」
「採算は合います。人員が増えれば採掘量も農業生産量も上がります。長期で見ればプラスです」
「……では許可する。ただし、受け入れ基準を作れ。無制限ではなく、適切な管理が必要だ」
「承知しました。受け入れ基準の設計を進めます」
「……カイト」
「はい」
「……戦争をしないで、これほどのことができるのか」
「できます。ただし時間がかかります。軍事より遅い。しかし崩壊した後の回復が速い」
「……なぜだ」
「人が死なないからです。インフラも残ります。基盤が残れば、再建が速い」
ルシフェラが少し黙った。
「……我は、これまで剣で解決することしか知らなかった」
「知っていたから今まで機能していました。今は別の手が使えます」
「……そうか」
ルシフェラが立ち上がった。謁見室を出る前に一度だけ振り返った。
「……頼む」
「承知しました」
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執務室に戻った後、ゴルが言った。
「……ルシフェラ様、最後に頼む、と言っていましたね」
「はい」
「……いつもより、少し違う言い方でしたね」
「そうですか」
「……ゴルには、命令より、お願いの方に聞こえました」
「どちらでも同じです。やることは変わらない」
「……長官らしい答えです」
カイトは計算書を開いた。作戦の開始準備を始めた。まず両替商への情報提供の書類を作る。ラーゴスのベルドに話を通す。フォルカに物流ルートの確認を頼む。シルヴィアにマナ貨の追加製造を依頼する。
すべきことがある。動けばいい。それだけだ。
ゴルが書類を整理しながら言った。
「……長官、今日のルシフェラ様との会話で、一つ印象に残ったことがあります」
「何ですか」
「……ルシフェラ様が、民衆はどうなる、と聞いたことです。ルシフェラ様は前にはそういうことを聞く方ではなかったように思います」
「そうかもしれません」
「……変わりましたね」
「変わる理由がありました。財政が改善されて、民衆の生活が安定することが軍の維持にも繋がる、ということが数字で分かるようになった。数字が見えると、気にする範囲が変わります」
「……長官が数字を出し続けたからですか」
「それだけではないと思いますが、一因はあるかもしれません」
「……ゴルは、そういう変化が面白いと思います」
「面白い?」
「……人が、見るものが変わると、考えることが変わる。数字を見せると、見えていなかったものが見えるようになる。それが面白いと思います」
「財務の本質かもしれません」
「……長官がそう言うと、少し誇らしいですね」
カイトは返答しなかった。ゴルの感想は財務論ではないが、否定する内容でもなかった。
窓の外は夜になっていた。蝋燭を一本つけた。計算書に戻った。作戦の開始まで、あと数日の準備期間がある。その間に整えておくことがある。ベルドへの連絡、フォルカへの確認、シルヴィアへのマナ貨追加依頼。一つずつやる。全部終わったら動く。




