第43話 枢機卿の提案
聖王国・王城の執務室で、エドワードは書類の山に向き合っていた。
ここ数日、書類が増え続けていた。増税の布告に対する各地からの陳情書。禁止令を無視したラーゴスの商人組合への対応を求める報告書。騎士団の給与遅配に関する内部報告。聖女リナリアの行方についての教会からの問い合わせ。全部に返答しなければならないが、何から手をつけていいかが分からなかった。
一つ一つは対処できるはずの問題に見えた。しかし、対処しようとすると別の問題が出てきた。増税を撤回すれば財源がなくなる。禁止令を強制しようとすれば騎士が必要だが、騎士は給与遅配で士気が下がっている。騎士の給与を出すには増税の税収が必要だ。どこから手をつけても詰まっていた。
以前は、問題が一つ出れば一つ対処できた。それが今は、対処するたびに別の問題が出てくる。なぜそうなるかを考える時間がないまま、書類が増えていく。
三日前、国内の物価上昇の報告を読んだ時に、少し気分が悪くなった。パンが値上がりしているという話だ。増税が原因だという分析があった。増税をしなければ騎士に給与が払えない。騎士に給与を払わなければ士気が落ちる。士気が落ちれば騎士団が動かない。騎士団が動かなければ国が守れない。国が守れなければ税収が落ちる。どこかで循環が詰まっていた。
ただ、どこかが分からなかった。
「陛下、聖女リナリアが消えた件はどうなっていますか」
側近が声をかけた。
「行方不明のままです」
「まだ見つかっていないのか」
「……はい。教会側も把握できていないようです」
「絶対に連れ戻せ。あの浄化魔法の使い手をこちら側に置いておかなければならない」
「……最新の情報では、魔王軍に引き抜かれたという話が出ています。確認は取れていませんが」
「魔王軍に?」
エドワードが少し止まった。
「……魔王軍がポーション製造に使っているということか」
「可能性はあります。確認が取れていないため断言はできませんが」
「できないなら確認しろ。それだけのことだ」
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数日後、夜になってからマルバスが執務室に来た。
マルバスは聖王国の枢機卿だ。教会の中枢に位置し、エドワードとも長い付き合いがある。表向きは教会の運営を担当しているが、実際は王国内のさまざまな情報と財を動かしている。白い衣をまとった老人で、声は低く穏やかだ。蝋燭の光の中では特に、老人に見えた。ただし目は常に何かを計算していた。
「陛下。少しよろしいですか」
「……マルバス。こんな時間に何の用だ」
「少し、込み入った話がございます。二人だけで」
エドワードは側近に目を向けた。側近が気を利かせて退出した。
マルバスが椅子に座った。書類の山を一瞥したが、何も言わなかった。エドワードを見た。目に感情がなかった。問題を見ている目だ、とエドワードは思った。同情でも怒りでもなく、ただ問題として見ている目。それがエドワードには少し落ち着いた。
「陛下、現在の状況を率直に申し上げます」
「聞こう」
「禁止令の効果が出ていない。増税が民衆の反発を生んでいる。これは手段の問題ではなく、原因の問題です」
「原因とは」
「魔王軍に、何かを変えた者がいます。略奪を止め、商業展開をし、聖女を引き抜いた。これは偶然ではない。頭がいる」
エドワードが少し黙った。
「……騎士団長も同じことを言っていた」
「賢明な判断です。そしてその頭を対処する方法について、一つ、提案がございます」
「……聞こう」
マルバスが少し間を置いた。
「あの男を……静かに消す方法があります」
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エドワードは返答しなかった。
沈黙が続いた。否定する言葉を探したが、出てこなかった。マルバスは急かさなかった。穏やかな顔で、エドワードが言葉を選ぶのを待っていた。
「……どういう意味だ」
「そのままの意味です。あの男がいなくなれば、組織は動きを止めます。頭がなければ、機能しない」
「それは……暗殺ということか」
「公式にはそう呼びません。ただ、そういうことです」
エドワードがまた黙った。長い沈黙だった。マルバスは待った。急かさなかった。エドワードが自分で考える時間を、マルバスは邪魔しない。それがこの二人の長年の習慣だった。
「……その男は、今、魔王軍の財務長官だという話だな」
「そうです。着任してから、軍の収支が大きく変わったとのことです。我々が手を出す前に、早い方が安全です」
「……確実にできるか」
「影刃という組織があります。これまでも、何度かお役に立ててきました」
「……知っている」
「任せれば、形跡を残しません。事故として処理されます」
エドワードは書類の山を見た。それからマルバスを見た。
マルバスの言葉は、一つの解決策に聞こえた。原因を消す。シンプルな方法だ。禁止令も増税も騎士団の問題も、元を断てば止まるかもしれない。その論理は分かった。
ただ、本当にそうかどうかは確かめていない。確かめる前に、エドワードは答えを出せなかった。
この場で否定しなかった。
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「……影刃を動かした場合、こちら側に痕跡は残らないか」
「残りません。これまでもそうでした」
「失敗した場合は」
「……相手が財務長官であれば、魔王軍は証拠として使うかもしれません。ただし、失敗した実行犯が捕縛された場合でも、依頼の経路は複数経由しているため、直接の証拠にはなりにくい」
「確実に成功するか」
「影刃の実績では、成功率は高い。ただし相手の状況によります。財務長官がどの程度の警戒をしているかにもよります」
エドワードが少し考えた。
「……わかった。進めろ」
その言葉は意外に早く出た。マルバスは表情を変えなかった。
「承知いたしました。陛下には何も動いていただく必要はありません。全て私が手配します」
「頼む」
マルバスが立ち上がった。退出する前に一度振り返った。
「陛下、一点だけ。この話は二人だけで。書類にも残しません」
「当然だ」
マルバスが出ていった。
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マルバスが退出した後、執務室に一人残った。
エドワードは何かを決断したわけではなかった。ただ、否定しなかった。その違いは本人にも分からなかった。
禁止令が機能せず、増税が反発を生み、聖女が消え、噂が広まっている。全部が一人の男から始まっているとマルバスは言った。その男がいなくなれば、全部が止まる。
その論理は単純だった。単純すぎて、本当にそうかどうかを確かめる気力が、今のエドワードにはなかった。
次の日、エドワードは側近に騎士団の追加動員について話をした。給与遅配が二ヶ月続いている騎士団に、新たな命令を出すことがどれだけ難しいかを、側近が数字で説明した。エドワードは聞いた。聞いたが、その数字が何を意味するかを考えなかった。数字を読む習慣が、エドワードにはなかった。
書類が積み上がり続けた。
エドワードは翌朝、マルバスとの会話を思い返した。「あの男を消す」という言葉が残っていた。消えた後に何が変わるかは考えていなかった。消えれば状況が止まる、とマルバスは言った。止まれば考える時間ができる。考える時間ができれば次の手が打てる。その論理を信じた。
根拠はなかった。ただ、他に選択肢が思いつかなかった。書類の山を見た。増税の撤回を求める声。禁止令の根拠を問う声。騎士団の士気低下を報告する声。全部に向き合う力が、今のエドワードにはなかった。




