第42話 民の声
テルファ村の朝は静かだった。
村の入口近くで、老人が二人、井戸の傍に座っていた。秋になりかけた風が草を揺らしている。どちらも農作業の手を休めているわけではなかった。農作業の前の、日課のような立ち話だ。日差しは穏やかで、遠くに山の稜線が見えた。この村に戦の気配はない。それはここ半年で変わったことだ。
「魔物が来なくなって、もう半年になるな」
「ああ。去年の今頃は、夜に外を歩けなかった」
「それが今は、夜でも普通に歩ける。昨日も畑から遅くなって、普通に帰れた」
もう一人の老人がうなずいた。
「悪いことばかりじゃないが、税が上がった。あれは痛い」
「三割か。去年より三割上がるんだぞ」
「そんな金、どこから出す」
「……出ないから困ってる」
二人の間に少し沈黙があった。
「魔物が来なくなって安全になった。でも税が上がった。安全になったのに、暮らしが楽になってない」
「魔物が減ったのは、どういうわけだ。誰かが抑えているのか」
「さあ。でも、ラーゴスに行く商人が、魔王軍が変わったという話を聞いてきた」
「魔王軍が変わった?」
「ポーションを売っているとか。安くて質がいいとか。そういう話だ」
老人が空を見た。
「……わからんな。魔物が安全になって、税が上がって、魔王軍がポーションを売っている。全部が繋がっているのか、繋がっていないのか」
「わからなくていい。税を払う金をどうするかだけ考えれば十分だ」
「でも気になる。なぜ魔物が来なくなったのか。なぜポーションが安くなったのか。何かが変わったのか、変わっていないのか」
「気になるなら、ラーゴスに行く商人に聞けばいい。あそこは情報が早い」
「この年で商人と話すのも大変だがな」
どちらも少し笑った。それから立ち上がって、農作業に戻っていった。村の風景は変わらないが、村の中の話題は半年前とは違っていた。
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ラーゴスの市場の中で、商人のベルドが仕入れの計算をしていた。
取引相手の商人が話しかけてきた。
「最近、聖王国の金貨の重さが変わった気がしないか」
「変わってないだろう。公式の重量基準は変わっていない」
「物の値段で見ると変わってる。三ヶ月前は10Gで買えたものが、今は13Gいる。重さは同じでも、買えるものが減っているということだ」
ベルドは計算を止めた。
「聖王国内のインフレか」
「そうだろうな。増税して流通が詰まったんじゃないか。魔物商品の禁止令も出たが、こっちはどうせ守らないし」
「守らなくて正解だ。根拠がないんだから」
「そういうことだ」
別の商人が入ってきた。
「ラーゴスで魔王軍のポーションを買った奴が、テルファ村周辺に売りに行ったらしい。よく売れたと言っていた」
「村まで流れているのか」
「聖王国のポーションより安いからな。品質も変わらない」
ベルドは計算書に戻りながら、少し考えた。
「魔王軍が変わったという話、本当らしいな。うちも今月から本格的にポーションの仕入れを魔王軍製に切り替えようと思っている」
「賢い判断だ。聖王国の製品は値上がりが続いているし、品質が安定しないという話も出てきた」
「そうか。ではうちも切り替えを考える」
噂はラーゴスの市場の中で、商人から商人へ移っていく。数日後には聖王国の国境近くの村にも届く。さらに数日後には聖王国の首都に近い街の商人が耳にする。それが今、起きていた。
ベルドは計算書を閉じた後、少し考えた。ラーゴスで取引をしている間に、見えている景色が変わってきた。以前は魔王軍というと危険な存在で、取引は考えなかった。それが今は、普通に仕入れの計算をしている。危険が減ったというより、利益が出るかどうかという基準で動いたら、こうなった。
「商売というのは、結局そういうことだな」
ベルドがつぶやいた。取引相手が怪訝な顔をした。
「何が」
「利益が出る方に人は動く。禁止令より安値に人は動く。それだけのことだ」
取引相手が頷いた。それ以上の話はなかった。計算書に戻った。
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聖王国・王城では、同じ日に別の報告が届いていた。
側近が書類を持ってきた。
「陛下、魔王軍製品の流通状況の最新報告です。禁止令を出したにもかかわらず、ラーゴス経由での流通が継続しています。さらに、テルファ村周辺まで行き渡っているという情報があります」
エドワードは書類を受け取って読んだ。
「なぜ禁止令が機能していない」
「……商人組合が根拠がないとして公式に従わない姿勢を示しています。強制するには騎士団による取り締まりが必要ですが、現在の給与遅配状況では追加の動員が難しく」
「民衆は魔物のものを買うな、と言ったはずだ」
「……はい。しかし価格が聖王国製の三割ほど安く、品質が同等以上との評判もあり、民衆が従わない状況です」
側近が続けた。
「もう一点、ご報告があります。民衆の間で、魔王軍の略奪が止まったことへの肯定的な評価が出始めています。禁止令を出した理由として挙げた『魔物製品の危険性』が、実態と乖離しているとの声が出ています」
エドワードが口元を引き結んだ。
「禁止すれば暴動になりかねません」
側近がそう言った時、エドワードは初めて沈黙した。反論が思いつかなかった。禁止令が機能せず、民衆が従わず、暴動のリスクまで出てきた。何も動いていない。
「……下がれ」
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数日後、北方砦の執務室にゴルが新しい報告書を持ってきた。
「……長官。テルファ村周辺の声がラーゴスまで広まっているという話を確認しました」
「内容を要約してください」
「はい。テルファ村周辺の農民が、魔物の略奪がなくなったのに税が上がったことへの不満を持っています。ラーゴスでは聖王国の金貨の購買力が下がっているという認識が商人の間で広まっています。それを合わせると、聖王国の民衆の間で『魔王軍のせいで苦しいのではなく、聖王国の政策で苦しくなっている』という話が出始めています」
「禁止令を出した。予想より早い」
カイトは短く確認して、次の書類を取った。
「ゴル、この情報はラーゴスから聖王国内部に流れていますか」
「……商人経由で流れているようです。速度は読めませんが、ラーゴスを経由した情報は一週間から十日で首都近くに届く傾向があります。テルファ村の話はすでにラーゴスに届いています。ラーゴスから首都方向への商人がその話を持って出発したということも確認しています」
「ということは、首都近くには来週あたりに届きますか」
「……その見積もりで合っていると思います」
「わかりました。引き続き情報を集めてください」
「はい」
ゴルが出ていった後、カイトは少し考えた。
被害者は聖王国の民だった。魔王軍は略奪を止め、ポーションを売っている。聖王国は禁止令を出し、増税をした。その結果として何が起きたかが、今、外部から可視化されつつある。数字が動いた結果は、民衆の声として出てくる。その声がラーゴスを経由して広まる。それが次の変化を作る。
テルファ村の老人たちは、自分たちの立ち話がその変化の一部だとは知らなかった。ラーゴスの商人たちは、自分たちの計算が一つの流れを作っていることを、なんとなく感じていた。知っていたのはカイトだけだ。しかし、知っていたからといって、カイトが動かしているわけではない。仕組みを作ったのはカイトだが、動かしているのはそれぞれの人間の判断だった。




