第4話 幹部の帳簿、見せてもらえますか
扉が開いた瞬間、空気が変わった。
謁見室は広い。砦の外観から想像するより、ずっと広かった。石造りの柱が両側に並び、奥に玉座がある。燭台の炎が揺れ、天井まで届く影が壁を動く。
玉座に、人影があった。
銀髪。赤い瞳。黒と赤のドレスが、暗がりの中でかえって鮮明に見える。外見は若い。二十代の前半ほどに見えるが、目が違う。何百年もの時間を見てきた目だ。座っているだけで、室内の重力が変わったような錯覚がある。
魔王ルシフェラ。
カイトは縄を付けられたまま、兵士に促されて前に進んだ。
「人間が自ら魔王領へ入り、財務の立て直しを申し出たと聞いた」
声は静かだった。謁見室に満ちる。怒鳴らなくていい声だ。
「はい」
「名を言え」
「榎本カイト。前職は経営コンサルタントです。企業の財務立て直しを専門にしていました」
「企業」
「組織、と言い換えます。倒産寸前の組織を黒字にする仕事を、前の世界でやっていました」
ルシフェラはしばらく何も言わなかった。カイトを見ている。品定めというより、何かを確かめるような目だ。
玉座の両脇に、四つの人影が立っていた。
右奥の巨体、ガルガン。毛皮に覆われた腕を組んで、こちらを睨んでいる。その隣、無表情で白い羽を背に折りたたんだフォルカ。左側には装飾過剰な杖を持ったローブ姿のシルヴィア、老いた目が細くなっている。そして一番端、仮面で顔を覆った細身のヴェイルが、柱に背を預けて動かない。
「処刑の前に聞く、と判断した理由を教えろ」
ルシフェラが言った。
「はい。牢屋でスキルを使い、貴軍の財務状況を把握しました。利益率がマイナス300%です。このペースであれば、半年以内に組織としての機能が崩壊します」
謁見室が静まった。
ガルガンが「なっ」と声を出した。シルヴィアの杖が床を叩く音がした。
ルシフェラは動かなかった。
昨日、処刑場でその数字を聞いたとき、頭に引っかかった。「マイナス300%」という数字が何を意味するか、正確にはわからなかった。しかし引っかかった。その感触が、こうして謁見室に呼ぶ判断をさせた。
「続けよ」
「では、一つ確認させてください。帳簿を見せていただけますか。幹部の方々、全員分の収支記録です」
間があった。
「ふざけたことを言うな!」
ガルガンが一歩前に出た。
「人間風情が、なぜ俺たちの帳簿を見る権利がある。証拠もなく幹部を疑うつもりか」
「疑っているわけではありません。現状を正確に把握したいだけです。問題の所在がわからなければ、対策が立てられない。帳簿はその出発点です」
「言葉遊びをするな! 貴様は捕虜だ。要求できる立場ではない」
シルヴィアの杖が再び床を叩いた。
「そうじゃ。マイナスの数字など言いがかりじゃ。根拠はあるのかね、これは」
「スキル【経理】による算出です。正確度については、帳簿と照合すれば確認できます。照合を許可していただければ、誤りがあれば認めます」
「許可も何も、見せる道理がない」
フォルカは何も言わなかった。羽が一度だけ静かに広がり、また閉じた。
ヴェイルは柱に背を預けたまま、こちらに視線を向けている。何を考えているかは読めない。
「静かにしろ」
ルシフェラの声は大きくなかった。しかし四天王全員が黙った。
ルシフェラは玉座の肘掛けに指を置いたまま、カイトを見た。
「貴様は我の軍が半年で崩壊すると言った。根拠は帳簿だと言った。ならば帳簿を見せれば、根拠を示せるということか」
「はい。具体的な数字と項目で説明できます」
「逆に、帳簿に問題がなければ」
「その場合は、スキルの誤差ということになります。潔く処刑を受け入れます」
沈黙があった。
ルシフェラは何かを考えている。カイトにはその内側が見えないが、ルシフェラの視線が一瞬、玉座の脇にある小さな棚に向いた。帳簿が保管してある場所だろうか。
(……気になっているんだ)
マイナス300%という数字が頭に残っている。それを確かめたい。カイトにはそう見えた。
「ガルガン」
「な……陛下、しかし――」
「帳簿を持て。四名全員分だ」
謁見室の空気が固まった。
「陛下! それは」
「命令だ」
ガルガンは口を開きかけ、閉じた。シルヴィアが杖の底を床に押しつけた。フォルカの羽が大きく揺れた。ヴェイルの視線が一度だけ床に落ち、それからカイトに戻った。
誰も動かなかった。
ルシフェラはもう一度、同じ声量で言った。
「持て、と言った」
最初に動いたのはヴェイルだった。音もなく柱から離れ、奥の扉へ向かう。続いてフォルカが同じ方向へ歩いた。ガルガンが舌打ちをして、重い足音で続く。シルヴィアが最後に、杖を鳴らしながら後へ続いた。
「カイト」
ルシフェラが名を呼んだ。
「はい」
「3日やる。帳簿を確認し、問題があれば数字で示せ。示せなければ処刑だ」
「わかりました」
「部屋を用意する。逃げようとすれば即座に殺す」
「逃げません。やることがありますので」
ルシフェラは何も言わなかった。
カイトはその沈黙の中に、ほんの一瞬だけ別の何かを感じた。安堵、ではない。期待でもない。もっと静かな何かだ。
言葉にする前に、それは消えた。
帳簿が運ばれてきた。布で束ねられた帳簿が四つ、石の床に置かれる。
兵士に先導されて、カイトは仮設の部屋へ通された。机と椅子と松明、それだけの部屋だ。縄は外された。
帳簿の束を机に置く。布を解く。
最初の一冊を開いた瞬間、数字が浮かび上がる。
【経理】が自動的に動き出す。
赤。予想通り、赤だった。しかし赤の種類が、思っていたより多い。
カイトは椅子を引き、腰を下ろした。
「……3日か」
独り言は短かった。
ページをめくる手が止まらなかった。




