第3話 これ、経営破綻してますよ
森の中で夜が明けた。
王都を出てから半日。街道を外れて樹林の中を歩いていたのは、主要道の検問を避けるためだ。追放者が正規の道を通れば、どこかで止められる可能性がある。リスクを下げるには、見えない道を選ぶほうがいい。
足が痛い。慣れない土の道を革靴で歩き続けた結果だ。前の世界では移動は電車か車だった。そういう些細なことが、異世界転移の不便さとして積み重なっていく。
明け方の光が木々の間から差し込んできたとき、気配に気づいた。
一つではない。複数。足音はほとんどない。訓練されている。
「止まれ」
声は背後から来た。
カイトは足を止めた。逃げる選択肢は最初から捨てている。走っても勝てない相手だとわかっていた。
振り返ると、三人いた。鎧の意匠が聖王国とは違う。黒と深緑を基調とした装備、角のある兜。魔王軍の斥候だ。
「人間が一人で魔王領に向かっている。理由を言え」
「仕事を探しています」
三人の間に微妙な空気が流れた。
「……仕事?」
「財務の立て直しができます。必要としているところがあれば、話を聞いてもらえませんか」
長い沈黙があった。
先頭の兵士が、残り二人と目を合わせた。それから、カイトの両腕をつかんだ。
「来い。砦に連れていく。判断は上に任せる」
「わかりました」
抵抗しなかった。これが最初の交渉の入り口だ。
砦の牢屋は、地下にあった。
松明が一本、鉄格子の外に立てられている。床は石で、湿り気がある。外の気温より低い。窓はない。
両手の縄は外された。逃げても無意味だと判断されたのか、それとも単純に脅威と見なされていないのか。おそらく後者だ。
カイトは牢の壁に背を当てて、【経理】を発動させた。
数字が流れ込んでくる。
砦全体の財務状況が、透明な膜を通して浮かび上がる。収入の欄、支出の欄、そして貸借対照表。
赤。
圧倒的な赤だった。
収入源は略奪が全体の94%。残りは周辺集落への「通行料」という名目の徴収が6%。製造業、農業、鉱業の収入欄は空欄だ。
一方の支出は、兵站費が全体の68%を占めている。物資を外部から調達できないため、割高な非公式ルートで仕入れている。輸送コストが市場価格の2倍以上。武具の修繕費は本来の必要額の40%しか計上されていない。残りは先送りされている。
利益率、マイナス300%。
このペースで推移すれば、半年以内に組織としての機能が崩壊する。
(……なるほど)
カイトは牢の壁を見ながら、静かに整理した。聖王国とは別の種類の破綻だ。こちらは粉飾ではない。単純に、収入の構造が壊れている。略奪依存の経営は、略奪が減れば即座に経営が傾く。持続可能性がゼロだ。
なぜこうなったか、の根拠は今の段階ではわからない。数字が示しているのは「現在の状態」だけだ。原因の分析には時間が要る。
鉄格子の向こうで、足音がした。
「お前」
兵士の一人が格子の前に立った。
「処刑が決まった。来い」
「わかりました」
立ち上がる。縄を再び巻かれ、通路を歩かされる。
石の廊下を進みながら、カイトは頭の中で言葉を整理した。時間はおそらく長くない。交渉できる余裕があるとすれば、数十秒から数分。最初の一言で相手の関心を引けなければ、何も始まらない。
提示すべき情報は一つだけでいい。「マイナス300%」という数字だ。それだけを伝える。理由の説明は後でいい。まず数字を相手の頭に入れることが優先だ。
中庭に出た。空は曇っている。処刑場らしき広場があり、兵士が数人立っていた。剣が抜かれた。
「待て」
カイトは立ち止まらなかった。兵士の横を通り過ぎるように進みながら、はっきりと言った。
「処刑するのは構いません。ただ、その前に3分だけ聞いてください」
兵士が動きを止めた。
「……何?」
「あなたたちの組織は、半年以内に崩壊します。財政の話です。3分で説明できます。聞く価値はあると思いますが」
沈黙があった。
兵士たちが顔を見合わせる。誰かが舌打ちをした。誰かが首を振った。だが誰も、剣を振り下ろさなかった。
「……上に報告する。動くな」
カイトは動かなかった。
空を見上げると、雲の切れ間に青があった。薄い青だ。地面に視線を戻すと、砦の石が古く、補修された痕跡が何度も重なっているのが見えた。
【資産鑑定】をかけると、砦全体の設備劣化が数値で出てくる。維持費が長期間にわたって削られている。機能はしているが、じわじわと壊れていくのを放置している状態だ。
(……誰かが何とかしようとした痕跡はある。でも途中で止まっている)
何があったのかは、まだわからない。
重い扉が開く音がした。
「魔王陛下がお呼びだ。来い」
言葉が短かった。兵士の顔に、わずかな緊張が見えた。普段の任務とは違う空気だ。
カイトは頷き、歩き出した。
廊下の先に、大きな扉がある。装飾は重厚で、他の場所とは明らかに格が違う。蝋燭が両脇に並び、炎が揺れている。
扉の前で、兵士が立ち止まった。
「……覚悟はいいか」
「はい」
「嘘でも「はい」と言うやつは初めて見た」
カイトは返事をしなかった。
扉が、ゆっくりと開いた。




