第38話 決算の前夜
第1期決算の数字が出揃ったのは、翌日の夕方だった。
カイトとゴルが執務室で最終確認をしていた。書類が机の上に積み上がっている。各部署からの月次報告、鉱山の収益記録、ポーション販売の集計、医療部門の稼働数値。全部を一つの書類にまとめる作業だ。
各部署が自分の記録を正確に出してきた。以前は確認作業のたびに誤差が出ていた。今は誤差がほとんどない。それ自体が数ヶ月の変化だ。
「数字が揃っているということは、各部署が正確に動いているということですね」
「そうです。報告書が正確に来ることが、現場が正確に動いている証拠です」
「ゴル、税収の計算は合っているか」
「……確認しました。合っています。各月の誤差はゼロです」
「ポーション収益は」
「第一ロットから第九ロットまでの合計です。確認しました。月を追うごとに増えています」
「鉱山収益は」
「ヴェイル殿の月次記録を使っています。計画比120%で計上しています。ヴェイル殿は毎月記録を正確に提出されていました」
「医療部門の稼働数値は」
「リナリア部門長から提出されたものを使っています。治癒件数、稼働時間、資材コスト。全て正確に記録されています」
カイトは書類を一枚ずつめくった。数字を確認した。
利益率の欄を見た。数字を確認した。もう一度確認した。
「ゴル」
「はい」
「鉱山分の収益が加わったことで、利益率が計画を上振れています」
「……どれくらいですか」
「想定内です。報告書に含める」
ゴルが少し黙った。それから声を出した。
「……これは、本当に黒字でありますか」
「そうだ」
「……すごいであります」
「計画通りだ」
ゴルがしばらく書類を見ていた。それから顔を上げた。
「……長官」
「何ですか」
「……これを持ってきた時のルシフェラ様のお顔を、今から想像すると少し怖いです」
「怖いとはどういう意味ですか」
「……喜ばれると思いますが、ルシフェラ様の喜んでいるお顔を見たことがないので、どうなるかが想像できません」
カイトは少し考えた。
「準備しておいてください」
「何を」
「何かあった時のために」
「……なるほどであります」
---
夜が深くなった。
最終的な数字の確認が終わった後、カイトは報告書の形式を整え始めた。数字だけ並べても、文脈がわからなければ意味がない。各施策の効果と数字の関係を一行ずつ書いた。
鉱山収益の計上について、一行注釈を入れた。
「鉱山の収益が今期初めて計上されました。計画比120%での達成は、ヴェイル武具調達長による管理の結果です。第2期以降、さらなる拡大を計画しています」
ゴルが横から見ていた。
「……長官、鉱山の収益が入ったことで、どれくらい変わりましたか」
「利益率が計画を大幅に上振れています。鉱山収益がなければ計画通りの数字でしたが、鉱山収益が入ったことで計画を上回る結果になりました」
「……どれくらい上振れていますか」
「詳細は明日の報告で出します。今夜は言いません」
「……なぜですか」
「今夜言うと、ゴルが興奮して眠れなくなる」
「……そ、そんなことはありませんが……でも聞きたいです」
「明日の報告で聞いてください」
「……長官、少しだけでも」
「明日です」
ゴルがしょんぼりした。カイトは書類の続きを書いた。
---
深夜近くになって、書類がまとまった。
カイトは出来上がった報告書を一度全部読んだ。前期比、計画比、各施策の効果。数字の流れに矛盾がないことを確認した。鉱山収益の初計上が決算を押し上げている部分を確認した。問題なかった。
書類を読みながら、これまでの流れを振り返った。残業禁止から始まり、補給ルートの整備、鉱山の調査、ラーゴス物流ギルドの設立、リナリアのスカウト、量産ライン稼働。一つ一つは小さい施策だが、積み重なって今の数字になっている。
「ゴル、確認してください」
ゴルが受け取って、一枚ずつ読んだ。時間がかかった。途中で何度か止まった。止まるたびに、目が少し大きくなっていった。
最後のページを読み終えた後、ゴルがしばらく書類を持ったままでいた。
「……長官」
「何ですか」
「……これは、本当に黒字でありますか」
「そうです。確認しました」
「……どれくらい黒字ですか」
「明日の報告で言います」
「……でも」
「明日です」
ゴルが書類を机に置いた。それから深く息を吐いた。
「……すごいであります。本当に、すごいであります」
「計画通りです」
「……長官は、最初からこうなると思っていましたか」
「なると思って計画を立てました。計画通りになりました」
「……計画通りになることが当たり前みたいに言いますが、そんな簡単なことではないはずです」
「簡単ではありませんでした。ただ、計画通りになるように動きました。それだけです」
ゴルが頷いた。
「……長官、一つよいですか」
「何ですか」
「……ゴルは、この数字を見て、少し泣きそうです」
「なぜですか」
「……マイナス300%の時に入ってきた話から、ここまで来たので」
「ゴルが一番よく見ていましたね」
「……はい。長官が来た時から、全部見ていました。正直、最初は半信半疑でした」
「そうですか」
「……でも、長官は一度も嘘をついていませんでした。言ったことを全部やりました。だから今日この書類があります」
「ゴルが数字を正確に記録し続けてくれたから、今日この書類があります」
「……二人で、ということですね」
「そうです」
ゴルが少し鼻をすすった。
「泣かなくていいです。明日の報告でルシフェラ様が泣いたら、二人で困ることになります」
「……ルシフェラ様が、泣きますか」
「可能性はゼロではないと思っています」
「……そ、そんな」
ゴルが書類を大切そうに整えた。
「……では明日は、ハンカチを持ってきます」
「そうしてください」
---
書類が揃った後、カイトは一人で少し考えた。
マイナス300%から始まった。崩壊まで六ヶ月。数字だけを見れば絶望的な状況だった。ただ、カイトにとっては問題の整理から始めればいい話だった。構造がわかれば、動かせる順序がわかる。動かせる順序がわかれば、計画が立てられる。計画が立てられれば、あとは動くだけだ。
ルシフェラが深夜に「正しく導くということか」と言った。その言葉の答えが、明日の報告書にある。
カイトは報告書を最後にもう一度確認した。表紙に「第1期決算報告書」と書いた。日付を入れた。明日の朝、これを謁見室で渡す。
電気もコンピューターもない世界で、帳簿と計算だけで黒字を出した。それは自分が前の世界でやってきたことと、本質的には同じだった。数字を読んで、構造を変えて、人を動かす。どの世界でも変わらない。
蝋燭の灯りが揺れた。外から風の音がした。明日の朝、報告書を持って謁見室に向かう。
ゴルが帰った後、執務室にカイト一人が残った。報告書を机の端に置いた。準備は整っている。明日の報告のために言葉を考える必要はない。数字が全部を語る。それがこの仕事の答えだ。
前の世界でも、決算の前夜というのは不思議な感覚があった。全ての仕込みが終わって、後は発表するだけという状態。その静けさは、混乱の中にいる時間とは別の種類の時間だ。今も同じだった。
この世界に来て最初に見た数字は、利益率マイナス300%という数字だった。それが今夜、別の数字になっている。自分が何をしたかというよりは、仕組みを変えて、人が動いて、数字が動いただけだ。
カイトは蝋燭を一本ずつ消した。




