第37話 ルシフェラの深夜
深夜の廊下は静かだった。
カイトは執務室に残っていた。決算に向けた数字の最終整理だ。月次報告を並べて、項目ごとに積み重ねていく。ゴルは昨夜に帰した。一人でやる方が速い作業だ。
最初にここに来た日のことを、カイトは時々思い出す。利益率マイナス300%の軍。崩壊まで六ヶ月。どこから手をつけていいかという問いに対して、最初にやったのは現状の整理だった。数字を並べることから始めた。
今は違う。数字が積み重なっている。
夜中を過ぎた頃、廊下に出た。喉が乾いていた。砦の水場は一階だ。
廊下は暗かった。砦の夜は人の気配がない。兵士たちは週休と残業禁止が定着したことで、夜の活動が減った。静かな砦というのは、以前では考えられなかったことだ。
廊下を歩いていると、向こうの部屋の扉の下から灯りが漏れていた。
ルシフェラの執務室だ。この時間に灯りがある。
カイトは少し立ち止まった。報告書を一冊持ってきていた。昨日提出するはずだった書類だ。出し忘れていた。渡すなら今でもいい。
扉を軽く叩いた。
「入れ」
声が来た。カイトは扉を開けた。
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ルシフェラは机の前に座っていた。報告書の束を前に置いて、一冊ずつ読んでいた。部屋の中に蝋燭が四本ある。深夜に一人でここまで灯りをつけているということは、しばらくここにいる気だということだ。
側近もいない。護衛もいない。魔王が一人で深夜に書類を読んでいる。それが当たり前のことのように見えた。
ルシフェラはカイトが入ってきたことを認識したが、書類から目を離さなかった。読んでいる途中を止めたくない、ということかもしれない。あるいは、誰が来ても気にしないということかもしれない。
「まだ起きていたのですか」
「……余計なことを言うな」
カイトは書類を差し出した。
「昨日の提出書類を持ってきました。遅くなりましたが」
「置け」
机の端に置いた。ルシフェラは受け取らずに今読んでいる書類に目を戻した。カイトはそのまま退出するつもりだったが、ルシフェラが何かを言ったのが聞こえた。
低い声だった。独り言のような言い方だった。
「これが……正しく導くということか」
カイトは扉に手をかけたまま、一度止まった。
「聞こえませんでした。何か?」
ルシフェラが顔を上げた。目が合った。一瞬だけ、何かが変わった表情を見た。ただし一瞬で消えた。
「……何でもない。続きをやれ」
「はい」
カイトは扉を閉めた。
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水場で水を飲んで、執務室に戻った。
廊下を歩きながら、さっきの言葉を思い返した。「正しく導くということか」。報告書を読みながら出てきた言葉だ。財務報告書を読んで、そういう言葉が出てくる。
ルシフェラが「正しく導く」ことを求めているということは、以前から見えていた。魔王として軍を動かし続けているのは、それが目的だからだ。ただ、数字が結果として出ることで初めて、「これが正しく導くということか」という言葉が出てきた。それは数字が見えるまで言えなかった言葉だということだ。
もう一つ気になったことがあった。
カイトが声をかけた時に、ルシフェラの表情が一瞬変わった。本人が気づいているかどうかはわからない。ただ、変わった。「余計なことを言うな」という反応は、ルシフェラらしかった。しかしその前の一瞬に、別の何かが出た。
判断する材料が少ない。続きは見てからにする。
執務室に戻って、書類の続きを始めた。
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翌朝、ガルガンが執務室に来た。
珍しかった。ガルガンが自分からカイトの執務室に来ることは少ない。大抵は廊下で短く声をかけてくるか、会議の場でだ。
「何ですか」
「……一つ確認したい」
「どうぞ」
「数字は正直だ、と言ったな」
「そうです」
「……では聞く。俺が着任前にやっていたこと——差額を抜いていたこと——は、数字に残っているか」
カイトは少し間を置いた。
「残っています。過去の記録として」
「……それは消えないか」
「消えません」
ガルガンが少し黙った。
「……そうか。ならしょうがないな」
「何がしょうがないのですか」
「……過去の数字は変えられない。なら今から出す数字で上書きするしかないだろう」
カイトはそれを聞いた。
「そういうことです」
「……お前は、それを最初から言ってたんだな」
「言っていましたか」
「……口では言ってなかったかもしれないが、やってることがそうだった。横流しの数字を記録して、改善の数字を積み重ねて。切り捨てなかった」
「切り捨てる理由がありませんでした。動く人間が必要でした」
ガルガンが少し考えた。
「……俺は北方軍が好きだ。数字より先に、それがあった」
「知っています」
「……それだけじゃ軍は動かないと、今はわかる。好きだけじゃ飯が食えない。兵士が回復できない。ポーションが足りない。好きだけじゃ何も解決しない」
「好きだという気持ちは重要です。ただ、それを仕組みで支えることが必要だということです」
「……お前の言い方は気に食わないが、言っていることは正しいな」
「ありがとうございます」
「礼は言わなくていい」
ガルガンが少し考えた。
「……お前は、俺たちを切り捨てるつもりがなかったのか。最初から」
「切り捨てる理由がありませんでした。動ける人間が必要でした。皆さんは動ける人間でした」
「……最初から? 俺たちは全員横領していたんだぞ」
「横領するほどの管理能力があった、ということです。能力は本物でした。使う方向が間違っていただけです」
「……それが採算が合う、という話か」
「そうです」
「……理由が感情じゃなくて利害か」
「利害の一致で動いた結果として、今の状況があります。理由が何であれ、動けばいい」
「……冷たい言い方だな」
「冷たくはないつもりですが」
「……まあいい。俺は動くから、お前は数字を出し続けろ」
「そうします」
ガルガンが立ち上がって扉に向かった。出ていく前に一度振り返った。
「……数字は、正直だ。それだけだ」
扉が閉まった。
廊下の外に、ガルガンの足音が遠ざかっていくのが聞こえた。以前のガルガンなら、こんな話をしに来ることはなかった。「正しい」と「好きだ」は別のところに置いていた。今は重なっている。それが変化だ。
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執務室が静かになった。
カイトは書類に戻った。四天王全員と、一つずつ折り合いをつけてきた。強制したわけではない。数字が出ていく過程で、それぞれが自分で変わった。それで十分だ。
ガルガンという人間は、「好きだ」という感情から出発している。それはカイトとは別の動き方だ。感情で動いている人間が、数字の積み重ねを見て変わっていく。感情を否定したわけではない。ただ、感情だけでは動かせない部分があることを、自分で認めた。
四天王全員が、それぞれの理由で変わった。ヴェイルは「正しく」。フォルカは「効率よく」。シルヴィアは「数字が出る方向に」。ガルガンは「好きだから、だから正しくやる」。方向性が違っても、今は同じ場所を向いている。
そしてルシフェラは、「正しく導く」という言葉を深夜に一人でつぶやいた。
決算報告まで、あと少しだ。数字が全部揃えば、明日の朝にゴルを呼んで最終確認をする。翌朝の報告に備えて、今夜のうちに書類を整える。




