第36話 エドワードの焦り
聖王国・王城の執務室でエドワードは書類を握ったまま立っていた。
側近が二人、入り口近くに立っている。どちらも顔が硬い。
「もう一度読め」
側近の一人が書類を読み上げた。
「ラーゴス市場における魔王軍製ポーション流通状況・最新報告。現在のシェアは市場全体の28%に達しています。聖王国製品との価格差が定着しており、継続的なリピート需要が発生しています。一部の商人が魔王軍との直接取引を開始したとの情報もあります」
エドワードは書類を机に叩きつけた。
「28%だと! 三ヶ月前は初日完売の百二十本だったはずだぞ!」
「……生産量が増加しているようで、月次の出荷量が当初の五倍を超えているとの推測があります」
「魔物に何が変わった!」
「……詳細はまだ確認中ですが、製造体制が整備されたと見られます。また、聖女リナリアが魔王領で業務に就いているとの情報が教会から確認されました」
エドワードが一瞬止まった。
「……確認したのか」
「はい。分院からの報告では、リナリアは自主的に離脱したとのことです。強制ではないと。引き継ぎの時間を取った上での離脱ということで、周到に準備されていたと見られます」
「聖女が魔王軍に自分から行ったということか」
「……そのようです。教会側も詳細を把握しておらず、困惑しているとのことです」
「なぜ分院の聖女が、魔王軍に引き抜かれるのを防げなかった」
「……給与の支払いがなかったということが、一因として考えられます」
エドワードが短く黙った。
「……続けろ」
「無償で働かせていた術者を、正当な報酬で引き抜かれたということです。教会側は把握していなかったと」
「それはこちらの問題ではなく教会の問題だ」
「……はい」
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エドワードは窓の前に移動した。
三ヶ月前は「まだ様子を見ればいい」と思っていた。ラーゴスで百二十本売れても、大した話ではないと思っていた。しかし今は28%だ。シェアが28%になれば、聖王国側の医薬品商人に影響が出る。影響が出れば、教会に影響が波及する。教会は王権の支持者だ。そこに揺らぎが出ると困る。
三ヶ月で28%まで動いたということは、次の三ヶ月でどこまで行くかわからない。「様子を見た」結果として、今の状況がある。では次は何をすべきか。その問いに対して、エドワードは答えを持っていなかった。
「魔物との取引を禁止しろ」
側近が少し間を置いた。
「……エドワード陛下、ラーゴスは国境緩衝地帯の商業都市です。禁止令を出した場合、ラーゴスの商人から反発が出る可能性があります。あそこは聖王国の直接統治ではなく」
「では禁止令ではなく指導だ。魔物の商品を扱うことを、自発的に控えさせろ」
「……どのような根拠で指導しますか」
「品質が保証されていない。衛生上の問題がある。そういう名目でいい」
「……しかし、購入者から効果があるという声が多数出ており、実際に品質問題の報告はございません。根拠として弱いと判断されます」
エドワードが振り返った。
「では騎士団に予算を回せ。装備を更新して、魔王軍に対して圧力をかければいい」
側近の顔が微妙に動いた。
「……騎士団への追加予算は、今期の財政計画に含まれておりません。追加するには財源が必要です」
「では増税しろ」
側近の一人が深く息を吸った。
「……現在、農民層の実質購買力が低下しています。今期のインフレ率を考慮すると、増税は民衆の反発を招く可能性があります。特に」
「反発は押さえ込めばいい。増税だ」
側近が互いに目を合わせた。どちらも何も言わなかった。その沈黙が答えだった。
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翌日、騎士団の幹部が呼ばれた。
エドワードの指示で、装備の更新状況を確認するためだ。騎士団長が来て、装備の現状を説明した。入室した瞬間から、騎士団長の表情が少し固かった。何かを言わなければならないことがわかっている顔だ、とエドワードは思った。
「……現在、装備の一部が老朽化しています。全体の17%が更新が必要な状態で、そのうち即時更新が必要なものが6%です」
「なぜ更新できていない」
「……予算の割り当てが十分でないため、優先順位をつけて更新しているところです」
「優先順位をどうつけている」
「……実戦で使用頻度の高いものから順にですが、魔王軍との衝突が最近減っていることもあり、緊急性は高くないと判断していた部分があります」
「魔王軍との衝突が減っているのはなぜだと思うか」
騎士団長が少し考えた。
「……何かが変わったとは思っていますが、原因は把握できていません」
「向こうに戦略を動かせる人間がいると思うか」
「……情報が十分でないため、何とも言えません。ただ、複数の変化が同じ方向を向いている点は気になります」
「複数の変化とは」
「略奪の停止。商業展開。聖女のスカウト。一つ一つは偶発的に見えますが、同時に起きているとなると計画的な可能性があります」
「……誰かが動かしている、ということか」
「可能性は高いと思います。ただ、詳細は不明です」
エドワードは騎士団長を下がらせた。
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その夜、別の報告が来た。
国内の騎士の一部が、待遇改善を求める声を上げているという話だ。正式な要求ではなく、内部の声として聞こえてきている。魔王軍の兵士が給与と週休を保証されているという情報が漏れ聞こえており、それと比較して不満が出ているということだった。
エドワードはその報告を聞きながら、少し気持ちが悪くなるのを感じた。聖王国の騎士が魔王軍の待遇と自分たちを比べている。実際に待遇の差があるから起きることだ。
「何が」
エドワードは静かに言った。
「魔王軍の情報が、こちらの騎士に届いているということか」
「……ラーゴスで直接取引した商人経由で情報が漏れているようです」
「封鎖しろ」
「……情報の完全封鎖は現実的ではなく」
「わかった。下がれ」
側近が下がった。
エドワードは一人で机の前に座った。次の書類を手に取ったが、内容が頭に入らなかった。
ラーゴスのシェア28%。装備老朽化17%。騎士の不満。聖女の離脱。これらが同時に起きている。バラバラな話のように見えて、一つの方向に向かっている気がした。
しかし、どこから手をつければいいかがわからなかった。
取引禁止は根拠がない。増税は民衆が反発する。装備更新は予算がない。騎士の不満は情報を封鎖できない。一つ一つの問題に対して、動ける手段がなかった。
エドワードは、なぜ手段がないのかを考えなかった。財政数字が悪化していることはわかっていた。ただ、なぜ悪化しているかを数字から確認したことはなかった。感覚で「まだ大丈夫」と思っていたから、その感覚が間違いだと確認する機会が来なかった。
机の上に書類が積み上がっていた。エドワードは一番上の書類を取って、また下に置いた。
翌朝、隣国との交易報告が届いた。聖王国の輸出品の一部が、価格競争力の低下を理由に他国製品に切り替えられているという内容だった。インフレによる通貨価値の低下が、輸出品のコスト増につながっている。
エドワードはその報告書を見て、また下に置いた。処理するべき問題が増えていたが、優先順位がつけられなかった。どれも重要に見えた。どれも急ぎに見えた。何からやればいいかがわからないまま、書類の山は増え続けていた。




