第34話 噂が広まる
テルファ村の村人たちの間に、奇妙な噂が広まり始めたのはポーションが出荷されてから少し後のことだった。
「最近、魔物に略奪されない」
最初に言い出したのは誰だったか、もう誰も覚えていない。ただ、言われてみればそうだ、という声が広がっていった。去年は秋に三度、魔物の一団が村を通り過ぎていった。その度に収穫の一部を持っていかれた。一昨年はもっと多かった。それが今年は一度も来ていない。
村人の老人が言った。「何かが変わったんだろうが、何が変わったかはわからない」
若い農夫が答えた。「ラーゴスで聞いたが、最近は魔物が仕事をするようになったと言っていた。仕事があれば略奪しなくていいんだろうか」
「魔物が仕事をするのか」
「知らないが、ラーゴスでポーションを売っているというのは本当らしい」
それだけだった。事実として「来ない」ということだけが残った。理由はわからないが、来なくなったことは確かだ。
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その噂は旅商人を通じてラーゴスに届いた。
ラーゴスは人が集まる場所だ。国境緩衝地帯の商業都市として、聖王国側の商人も魔王領側の商人も通る。テルファ村の噂もその流れに乗った。
「魔王軍が略奪をやめた」
ラーゴスで話される時、その噂はすこし形を変えていた。事実かどうかは誰も確認していない。ただ、話としては面白いので広まる。面白い話は事実かどうかに関わらず広まる。
そこに「魔物のポーションが安くて効く」という話が重なった。
ポーションを買った農夫が誰かに話して、その誰かがさらに別の人間に話した。魔物が作ったにしては品質がいい。価格が聖王国の半分以下だ。これを話題にしない理由がない。
二つの噂が重なることで、第三の話が生まれた。
「魔王軍が変わった」
それが本当かどうかは誰も知らない。ただ、こうした噂には一つの性質がある。事実として定着してしまえば、それが事実になる。人間は信じるものの方向に動くからだ。
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その話がラーゴスから聖王国の王都に届くまで、二週間かかった。
エドワードの朝の執務室に、側近が書類を持ってきた。定例の報告書類の束の一番下に、耳になじまない報告が一枚混じっていた。
「ラーゴス周辺からの市場情報です」
「何だ」
「ラーゴスで魔物のポーションが売られています」
エドワードが書類から顔を上げた。
「……何?」
「魔王領から出荷されたポーションが、国境緩衝地帯のラーゴスで販売されています。価格は我が国の市場価格の半額以下、品質は同等との報告が入っています」
「どこから入ってきた情報だ」
「ラーゴス駐在の情報官からです。信頼性は高いと判断しています」
エドワードは書類を受け取った。書いてあることを確認した。ポーション百二十本、初日完売。翌日も追加入荷があり、同様に売れている。購入者は主にラーゴス周辺の農民層と職人層だ。
それだけだった。数字が並んでいる。
「……魔物がポーションを? そんな技術が向こうにあるのか」
「これまでの報告では確認されていませんでした」
「では急に出てきたということか」
「……詳細は不明ですが、最近になって製造が始まったと思われます」
エドワードは書類を机に置いた。
「魔王軍は弱体化しているはずだ。なぜポーションを作る余裕がある」
「……現時点では不明です」
「調べろ。ラーゴスの情報官を動かして、流通経路を調べさせろ」
「承知しました」
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側近が出ていった後、エドワードはしばらく一人で考えた。
ラーゴスで魔物のポーションが売れている。それ自体はそれほど大きな話ではないかもしれない。ただ、気になることがある。「安くて効く」という評判が広まれば、聖王国側の民が魔物のものを選ぶことがある。経済的な問題だ。
さらに「魔王軍が略奪をやめた」という噂まで入ってきている。
これらが同時に起きているということは、偶然ではない可能性がある。
「シグはどこにいる」
別の側近が答えた。
「国境付近の視察から帰還したばかりで、現在は王都に待機しています」
「呼べ」
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シグが執務室に来たのは昼前だった。
旅の疲れが少し残っているように見えたが、エドワードの顔を見て姿勢を正した。
「シグ、聞きたいことがある」
「はい」
「魔王軍の様子に変化はあったか。国境視察で何か気づいたことはあるか」
シグが少し考えた。
「……変わったとすれば、略奪行為が減っていることです。テルファ村方面では、今年に入ってからほとんど報告がありません」
「それは把握している。他には」
「……ラーゴスで、聞いたことのない話を耳にしました」
「何だ」
「……魔王軍に人間がいる、という話です」
エドワードが眉をひそめた。
「人間が?」
「確認していません。ただ、ラーゴスの商人から聞きました。魔王軍に財務を扱う人間が入ったのではないか、という話です」
「……財務だと」
「……はい。私も信じていませんでしたが、略奪が減っていることと、ポーションが出回り始めたことを合わせて考えると」
「何だ」
「……整合するかもしれないと思いました」
エドワードはシグの顔を見た。シグは何か言いたそうだったが、続けなかった。
「……まあ、楽観視していい状況ではないかもしれません」
「わかった。引き続き情報を集めろ。詳細がつかめたら報告しろ」
「承知しました。……もう一つよろしいですか」
「何だ」
「……リナリアという聖女が、教会の分院から姿を消したという話があります。もし魔王領に移ったとすれば、ポーションの品質に一つ説明がつく部分があります」
エドワードが少し止まった。
「……聖女が魔王領に?」
「確認が取れていません。ただ、情報として入っています」
「……調べろ。教会にも確認を取れ」
「承知しました」
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シグが退室した後、エドワードは窓の外を見た。
財務を扱う人間。略奪の停止。ポーションの流通。これらが一つの方針から来ているなら、魔王軍の中に戦略を動かせる人間がいるということだ。
それは不快だった。
ただ、まだ大した話ではないとも思った。魔物がポーションを少し売ったからといって、聖王国の根幹は揺るがない。もう少し様子を見ればいい。
エドワードにとって、「様子を見る」は判断の保留だった。保留の間に状況が動いていることには、この時点では気づいていなかった。
エドワードは次の書類を手に取った。税収の報告書だ。今年度の徴収実績と来年度の予測が並んでいる。数字を見ると、少し前から実績が目標を下回り始めている。インフレが進んでいる分、農民層の実質購買力が落ちている。徴税が追いついていない。
魔王軍のポーションが半額で買えるなら、農民はそちらに流れる。当然だ。それが続けば、聖王国内の医薬品市場に影響が出る。医薬品市場は宗教と密接に結びついている。教会が関与している部分が多い。影響が出れば、教会側からも動きがある。
まだ対処できる段階だ、とエドワードは思った。ただ、その「まだ」という根拠を、彼は数字では確認していなかった。
聖王国の財政数字は数年前から悪化している。インフレが進み、通貨の価値が下がっている。騎士団の装備維持費が増えている。宗教施設への補助金も増えている。歳入は伸びていない。ここにラーゴスでの税収が減れば、さらに圧迫される。
しかしエドワードはその計算をしなかった。「まだ対処できる」という感覚の方が、数字より先にあった。




