第29話 聖女の決断
翌朝、リナリアが来たのは朝一番だった。
宿から物流ギルドまでは徒歩で数分だ。ゴルが扉を開けると、昨日と同じ旅装の女が外に立っていた。昨日より顔がはっきりしている。眠れたか眠れなかったかは、ここでは聞かなくていい。
「おはようございます」
「……おはようございます。来ました」
「どうぞ」
ゴルが椅子を出した。リナリアは座る前に一度深く息を吐いた。それから腰を下ろした。書類を手に持っていた。昨日渡した採用条件書類だ。
「……昨夜、もう一度読みました」
「はい」
「……一行ずつ読んで、考えました。月50万G、週休二日、部門長の職位、業務内容。繰り返し読みました」
「はい」
リナリアが書類を手の中で一度たたんだ。また広げた。
緊張ではなく、何かを確認している動きだとカイトは思った。もう一度広げたのは、言葉にする前に改めて確かめるためだ。
「……私の浄化魔法は、ここでは使い切れません」
カイトは何も言わなかった。
「聖王国の教会で、八年間働きました。感謝されていました。それは本当のことです。ただ、私の魔法の使い道を私が決めたことは一度もありませんでした。どこに配属するかも、何に使うかも、いつまで続けるかも、全部教会が決めていた」
「そうですか」
「……医療部門長の職位というのは、私が決めることができる、ということですか」
「業務の設計は部門長の権限です。範囲は魔王軍医療部門の業務全体です」
「……全体、ですか」
「全体です。ただし、予算内で、という制約はあります。月50万Gが上限です」
「月50万G、全部使っていいのですか」
「部門の業務に必要であれば使えます。無駄遣いは困りますが、必要な支出は構いません」
リナリアはしばらく黙っていた。
「……決めました。行きます」
カイトは少し間を置いてから答えた。
「わかりました。採用します」
「……はい」
「後悔しない決断ですか」
「……すると思います。後悔するかどうかは行ってみないとわかりません。ただ、行かなかった場合の後悔の方が大きいとは思いました」
「それで十分です」
「……そうですか」
「自分で考えて出した答えなら、それでいい」
「ありがとうございます、とここで言ってもいいですか」
「構いません」
「……ありがとうございます」
カイトはそれを聞いて書類袋を取り出した。
「では、採用を確定します。着任は一週間後でいいですか。引き継ぎの時間を使ってください」
「……一週間で、大丈夫です」
「砦への道はゴルが説明します。着任当日はゴルが迎えに来ます」
「……砦は、どこにあるのですか」
「北方です。ラーゴスからさらに半日ほどかかります」
「……わかりました」
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そこで、外から扉が開いた。
入ってきたのはシグだった。白い騎士鎧で、腰に聖剣を帯びている。外で待っていたのだろう。リナリアがここにいることを知っていた、あるいは、ラーゴスまで後をつけてきたかのどちらかだ。
「……リナリア」
「シグさん」
「ここで何をしてる」
「……採用の話をしていました」
シグが固まった。採用という言葉が出た瞬間に固まって、カイトに視線を移した。カイトは書類袋を閉じながらシグを見た。
「シグ。邪魔はしないでくれ」
「邪魔してるんじゃない! リナリアが本気で行くつもりなのか確認しに来た」
「確認したければ本人に聞いてくれ」
シグがリナリアに向き直った。
「リナリア、本当に行くつもりか」
「……はい」
「魔王軍だぞ! 俺たちが戦ってる相手だ!」
「戦っているのはシグさんです。私は聖女です。戦場には出ていません」
「でも——でもリナリア、そこは魔物だぞ。魔物と一緒に働くのか」
「……はい」
「怖くないのか」
「……まだわかりません」
シグが口を開いた。言葉がしばらく出てこなかった。
「……リナリア。お前が何年間ここで働いてきたかは知ってる。その気持ちはわかる。ただ——」
「シグさん、私が何年間いくら稼いできたか知っていますか」
シグが止まった。
「……え」
「何年間いくら稼いできたか。金額として」
「……知らない」
「私も、さっきまで知りませんでした」
シグがその言葉を受け取った後、しばらく何も言えなかった。カイトは関与しなかった。これはリナリアとシグの話だ。
「……どういうことだ」
「八年間、無償で働いていました。給与はありませんでした。宿舎と食事だけでした。それを、おかしいと思ったことがありませんでした。誰も教えてくれなかったから」
「……それは」
「カイトさんが最初に数字を言ってくれました。私の魔法の価値が月50万Gだと。初めて誰かに数字で言ってもらいました。あなたは、知っていましたか」
シグはもう一度黙り込んだ。
「……知らなかった」
「それは本当だと思います。シグさんを責めているわけではありません。ただ、知らなかった人に『行くな』と言われても、私は動く理由が見つかりません」
「……でも危険だろう」
「聖王国の分院も、危険でした。魔物が出る地域の境界に配置されていましたから。ただ、誰も『危険だ』とは言いませんでした。働いていて当然でしたから」
シグが何かを言おうとした。しかし今度は最後まで言葉が出なかった。
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「……わかった」
シグが一歩下がった。
「止めない。ただ——何かあったら、連絡しろよ」
「……はい」
「カイト」
「何だ」
「リナリアに何かあったら、俺がお前のところに来る。それだけ言っておく」
「業務中に怪我をした場合は医療費を負担します。そうでなければ本人の問題です」
「そういうことじゃない」
「わかっています。ただ、それがこちらが答えられる範囲です」
シグはそれ以上言わなかった。リナリアに向かって一度頷いてから、外に出ていった。
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扉が閉まった後、リナリアが小さく息を吐いた。
「……シグさんは、ああいう人です」
「そうですね」
「悪い人ではないのですが」
「知っています」
カイトはゴルに向かって言った。
「引き継ぎのための書類を用意しておけ。一週間後の着任で、砦への案内も含める」
「承知しました」
リナリアが立ち上がった。
「では、一週間後に」
「一週間後に。ゴルが当日ここで待ちます」
「……よろしくお願いします」
女が出ていった。ゴルが書類を出し始めた。
カイトは着任後の体制整備の順序を頭の中で組み始めた。砦に戻ったら、医療部門の設置場所を確保する必要がある。リナリアが来る前に最低限の場所だけ整えておけばいい。体制設計は本人に任せる。それが部門長の仕事だ。
ゴルが書類を抱えながら声をかけてきた。
「……長官。採用が確定したということは、砦への帰還もそろそろですか」
「ラーゴスでの業務を一日で片付ける。明後日には砦に戻る」
「フォルカには連絡を」
「今日中に出しておけ。リナリアの着任受け入れ準備も含めて指示を出す」
「承知しました。……長官、一つよいですか」
「何だ」
「シグ殿のことですが。あの方は今後も現れると思いますか」
カイトは少し考えた。
「おそらく来る。ただ、邪魔には来ない。確認しに来る方だ」
「……どうしてそう思われますか」
「最後に言ったことを聞いたか。何かあったら連絡しろよ、だ。止めるためではなく、見守るための言葉だ」
「……なるほどであります」
「リナリアの判断を最終的には受け入れた。それだけのことだ」
ゴルが書類を整理しながら頷いた。
一週間後、リナリアが砦に来る。ゼロから始まる医療体制の立ち上げが始まる。人材の採用としては予定通りだ。ただ、着任後に何が起きるかは、来てみてからでないとわからない。魔物に囲まれた環境で聖女が業務を開始する。それが問題なく進むかどうかは、リナリア本人とそれ以外の双方次第だ。
カイトはラーゴスの残業務を確認し始めた。




