第27話 リナリアの三日間
採用書類を棚の上に置いたまま、リナリアは一日目の業務を始めた。
朝から来訪者が続いた。農家の老人、子どもを連れた母親、腰を痛めた村人。一件ずつ対応して、浄化の術をかけて、次の人を呼ぶ。いつもと変わらない業務の流れだった。
変わったのは、合間に書類を見るようになったことだ。
来訪者が途切れた短い時間に、棚の上に置いた書類を取り出した。もう一度読んだ。月50万G。週休二日。部門長の職位。文字は変わらない。条件は昨日と同じだ。
魔王軍。
その二文字の前で、毎回手が止まった。怖いかどうかと聞かれれば、正直に言えばわからない。ただ、カイトという人間が最初から「魔物が相手の業務になる」と告げてきた。それを隠さなかった。
昼に、村の子どもが膝を擦り傷で来た。浄化の術をかけながら、何のためにこの術を使っているのかを、リナリアは久しぶりに考えた。この子のために使っている。そのことは間違いない。ただ、この子のために使い続けることが、自分を消耗させ続けることを意味するかどうかは、別の問いだった。
術が完了した。子どもが「ありがとう」と言って走って出ていった。
その「ありがとう」を、リナリアは毎日受け取っている。今日で何度目かは数えていない。最初の年は数えていた。百を超えてから、数えなくなった。積み重なるにつれて、感謝の言葉が当たり前のものになっていった。当たり前になることで、それが自分を支えているのか消耗させているのかが、わからなくなっていった。
ただ今日は、その感謝の言葉に値段がついているとしたらいくらかを、初めて考えた。
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昼前に、シグが来た。
「リナリア、昨日の件だけど」
「……はい」
「あいつの話は聞くな。カイトは魔王軍にいる人間だ。信用できない」
「どうして信用できないのですか」
「魔王軍だから」
リナリアは少し考えた。
「……魔王軍だから信用できないというのは、根拠になりますか」
「な——なるだろう! 魔王軍だぞ! 今まで僕たちを散々攻撃してきた」
「カイトさんは人間ですよね」
「そうだけど、でも——」
「シグさん、私の浄化魔法の価値を知っていましたか」
シグが止まった。
「……それは関係ないだろう」
「関係あります」
リナリアは書類をそっと棚の上に戻した。
「私は八年間ここで働いています。治癒だけで三千件以上の対応をしました。農地浄化は毎年百件以上です。でも一度も、自分の魔法がどれだけの価値を持っているか、考えたことがありませんでした。考えても意味がないと思っていました。ここ以外に行く場所がないと思っていたから」
「……リナリア」
「昨日、初めて誰かに数字で言ってもらいました。月50万G。本当かどうかはわかりません。でも、価値があると言ってもらったのは初めてです」
シグは何も言えなかった。
「……行くつもりか」
「まだわかりません。ただ、考えます」
「でも魔王軍だぞ」
「魔物の方々が怖いかどうかという話であれば、考えます。ただ、シグさんが言う『信用できない』の根拠が魔王軍だから、というだけなら、それは私の判断の材料にはなりません」
シグが口を開いた。しかし今日も言葉が出てこなかった。
「……カイトは昔から、そういうやつなんだ」
「どういうやつですか」
「……数字で全部片付けようとする。感情を無視する」
「書類には感情を無視した形跡はありませんでしたが」
「……それは」
「週休二日のことを言っています。無償で休みなく働かせるつもりがあるなら、そんな条件は書かないはずです」
シグはしばらく黙っていた。
「……考えてから決めろよ」
「そのつもりです」
シグが出ていった。扉が閉まった後、しばらく静かになった。
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二日目の業務も変わらなかった。
ただ、同じ業務を繰り返しながら、リナリアの中で何かが少しずつ変わっていた。
午後に農地浄化の依頼状が三件届いた。今週中に処理が必要なものだ。一件ずつ内容を確認しながら、ふと思った。この三件を処理するのに、市場価値ではいくらになるのか。数字が頭に浮かんだ。今まで一度も考えなかったことを、自然に考えていた。
価値を知らされないまま働くことと、価値を知って働くことは、同じではない。
昨日の来訪者を思い出した。腰の痛みを訴えた老人が、術をかけ終えた後に「ありがとう」と言った。その感謝は本物だった。ただ、感謝と報酬は別のものだということを、八年かけて気づかなかった。今、初めて気づいていた。
感謝されたいから働いているのか、それとも正当に働きたいから働いているのか。その区別を、リナリアは考えたことがなかった。どちらも大事だと思っていたが、どちらが欠けているかを確認したことがなかった。
感謝はある。報酬はない。
その二つが並存することを、おかしいとは思っていなかった。奉仕とはそういうものだ、と教えられてきた。ただ今日、その「教えられてきた」という事実が、初めて気になった。誰が、なぜ、その言葉を教えたのか。
その事実を数字として見せてくれた人間が、初めて現れた。
夜になって、もう一つのことを考えた。ここを離れたら、この教会の浄化業務を担う人間がいなくなる。明日から来訪者の対応が滞る。腰の痛みを訴えた老人が、また来るかもしれない。農地の浄化を待っている村人がいる。それは申し訳ないと思った。
ただ、その申し訳なさが、自分が無償で働き続ける理由になるかどうかは別の話だ。
引き止める鎖が申し訳なさでできているとしたら、その鎖は本当に必要なものかを確認する権利が自分にある。リナリアは初めてそう思った。
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二日目の夕方、リナリアは宿舎の自室で書類を広げた。
業務記録をつける習慣があった。今日の対応件数、使用した術の種類、翌日の予定。毎日欠かさず書いてきたものだ。今日も同じように記録を書いた。
書き終えてから、カイトの書類を隣に置いた。
業務記録と採用書類が並んでいる。業務記録には数字が並んでいる。対応件数、使用回数。ただし、それぞれにいくらの価値があるかは書かれていない。採用書類には月50万Gとある。
同じ仕事を記録したもので、数字の意味がこれほど違う。業務記録の数字は量だ。採用書類の数字は価値だ。自分は八年間、量しか記録してこなかった。価値を書く欄が、最初からなかった。
リナリアは業務記録を閉じた。
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三日目の朝が来た。外がまだ暗いうちに目が覚めた。昨夜はよく眠れなかった。眠れなかった理由は不安ではなく、考えが止まらなかったからだ。
リナリアは書類をもう一度広げた。
一行ずつ読んだ。月50万G。週休二日。部門長の職位。業務内容。医療体制の整備という項目で手が止まった。
今の教会分院には体制と呼べるものがない。自分一人が動いているだけだ。体制を整備するということは、自分の仕事の方法を設計する権限があるということだ。それは今まで一度もなかったことだ。
連絡先はラーゴスの物流ギルド、と書いてある。
書類の外に出る言葉が、一つだけ頭に残っていた。
「言わなかっただけです。価値は最初からあった」
それが本当かどうかは、行ってみなければわからない。ただ、そう言ってもらえた事実は消えない。
窓の外が白んでいた。日の出まで、あと少しだった。
教会長には今朝のうちに話をする。業務の引き継ぎは必要だ。それはする。ただ、それが引き止める材料になるかどうかを決めるのは自分だ。八年かかったが、それだけのことは今日わかった。
リナリアは書類を丁寧に折りたたんだ。翌朝、ラーゴスに向かうことにした。




