第26話 月50万G
翌朝、教会に着いたのは日の出から少し後だった。
昨日は一日観察して、最後に一言だけ接触した。今日は逆だ。最初から話す。昨夜ラーゴスで書いた採用条件書類が書類袋に入っている。数字と条件が揃えば、あとは相手が判断する。それだけでいい。
昨日と同じく扉は開いていた。中に入ると、女がすでに準備をしていた。書類を並べ、浄化に使う道具を棚から出している。カイトが入ってきたことに気づいて、手を止めた。
「……昨日の方ですね」
「はい。改めて来ました」
「転職の話、とおっしゃっていましたが」
「そうです。今日はその話をしに来ました。少し時間をもらえますか」
女は少し考えてから、「どうぞ」と椅子を勧めた。自分は向かいに座った。
「あなたの浄化魔法は、月50万Gの価値があります」
女が目を細めた。
「……月50万G」
「【資産鑑定】という鑑定スキルで測定した数値です。治癒・除染・農地浄化の三分野に対応できる使い手は希少です。その希少性と稼働量を合わせると、月換算でその数字が出ます」
「……現在の報酬はいくらですか、と聞きたいわけですね」
「聞きます。いくらですか」
女は少し間を置いた。
「……宿舎と食事だけです。給与はありません」
「無償か」
「……志に基づく奉仕ですので」
「なるほど」
カイトは書類袋から紙を一枚出した。採用条件の概要だ。昨夜、ラーゴスの宿で書いた。
「魔王軍医療部門長として採用したいと思います。月50万G、週休二日、部門長の職位です。業務内容は魔王軍所属の兵士・魔物への治癒業務、砦周辺の農地・施設の浄化、医療体制の整備です。詳細はこちらに書いてあります」
女は紙を受け取った。一行ずつ目で追っていく。手が一度止まった。
「……魔王軍、ですか」
「はい」
「……罠ですか」
「業務上の採用提案です」
女はもう一度紙に目を落とした。今度は最初から最後まで丁寧に読んでいく。カイトは待った。
読み終えるまでに少し時間がかかった。条件の一行一行を確かめるように読んでいる。早急に断るつもりがあれば、そこまで丁寧には読まない。
「どうしてここに来たのですか。なぜ私が対象なのですか」
「あなたの技術の市場価値がここにあると判断したからです。魔王軍に浄化魔法の使い手が必要で、あなたにはその価値がある。それだけです」
「……魔物の方々と一緒に働くことになりますか」
「なります。治癒の対象も魔物が多くなります」
「……怖くないのですか、と聞こうとしましたが、それは変な質問でしたね」
「そうでもありません。実際に怖いかどうかは会ってみないとわかりません。ただ、魔王軍は現在正規雇用の体制を整えています。働く環境として問題はないと思います」
「……私の技術が、月50万Gの価値があると」
「あります」
「……誰も、そんなことを言ったことがありませんでした」
「言わなかっただけです。価値は最初からあった」
女が静かに書類を折りたたんだ。何かを考えているような間があった。
「……考える時間をいただけますか」
「三日以内に返答をお願いします。こちらの書類に連絡先を書いてあります。ラーゴスの物流ギルドまで届けてもらえれば受け取れます」
「承知しました」
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そこで、扉が開いた。
朝の来訪者かと思ったが、入ってきたのは背の高い青年だった。白い騎士鎧に身を包んでいる。腰に聖剣を帯びていた。入ってきた瞬間に部屋の中を見回して、カイトに気づいた。
「……お前」
「久しぶりだな、シグ」
「なんでお前がここに——」
「用事がある」
カイトはシグを一目見てから、リナリアに向き直った。
「この方の知り合いですか」
「……はい。聖王国の勇者、シグさんです」
「元同僚です。今は関係ない」
「関係なくない!」
シグが声を上げた。カイトは視線をリナリアに戻した。
「では、先ほどの確認を——」
「待てカイト、何の話をしてるんだ」
「採用の話です」
「……何の採用だ」
「魔王軍医療部門長の職です」
シグが固まった。魔王軍という言葉が出た瞬間に固まって、そのまま動かなかった。医療部門長という続きの言葉も、固まったまま受け取ったらしい。
カイトはシグが何か言うより先に立ち上がって椅子を戻した。
「シグ。邪魔しないでくれ。業務中だ」
「業務って——お前、リナリアを魔王軍に引き込もうとしてるのか!」
「引き込むのではなく、採用の提案です。決めるのはリナリアさんです」
「リナリアは聖女だぞ! 魔王軍に行くはずがない!」
「それを決めるのも本人です」
「話を聞け! お前が魔王軍にいるのはわかった。だがリナリアを巻き込むのは別の話だ!」
「巻き込んでいません。提案しています」
カイトはシグに向き直った。
「シグ、一つ聞く。リナリアさんの浄化魔法の価値が月50万Gだと知っていたか」
「……何?」
「知っていたか、と聞いています」
シグが口を開いた。言葉が出てこなかった。もう一度口を開いた。それでも出てこなかった。
「……知らなかった、は答えにならないと思っているか」
「思っていません。知らなかったのなら知らなかっただけです。ただ、知らなかったのに行くなとは言えません。根拠がない」
「……そんな言い方は——」
「根拠のない反対は、相手の判断の邪魔になるだけです。リナリアさんが自分で考える時間の方が重要です」
カイトはそれ以上シグに向かって言わなかった。
「リナリアさん、三日考えてください。急ぎません」
「……わかりました」
扉に向かった。シグが横から声をかけてきた。
「カイト。本気で言ってるのか」
「業務上の提案です。本気でないものはしません」
扉を開けて外に出た。
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丘を下りながら、後ろでシグが何か言っているのが聞こえた。リナリアに向かって話しかけているらしかった。声のトーンからして「行くな」という内容だろうと思った。内容は聞こえなかった。
カイトはそのまま歩き続けた。
今日の接触は終わった。採用書類を渡し、条件を口頭で説明し、三日の猶予を与えた。シグが来たのは想定外だったが、問題ではない。むしろシグがリナリアに話す機会ができた。シグが「行くな」と言えば、リナリアは自分で考える必要が出てくる。
考えるということは、選択の余地があるということだ。
選択の余地があれば、人間は動く。
ラーゴスまでの道を、一人で歩き続けた。
シグが「月50万Gを知らなかった」という事実は、想定の範囲内だった。技術の市場価値に無頓着な人間は多い。勇者として聖王国に扱われているシグは特にそうだろう。自分の装備のコストも、パーティーのメンバーの技術価値も、数字として見たことがないはずだ。
それ自体を責めるつもりはない。ただ、知らないまま「行くな」と言えば、それは相手の選択を狭めるだけだ。
リナリアが三日で出す答えは、どちらでも構わなかった。ただ、自分で考えた上で出した答えであってほしかった。それが雇用の始まりとして正しい。
シグの「行くな」は聞いただろう。友人の反対と、月50万Gという数字と、現在の無償労働という現実を並べて、自分で判断できるかどうかだ。それだけの話だった。
ラーゴスに戻ってゴルに声をかけた。
「物流ギルドの進捗を確認しておいてくれ。フォルカと話して、この三日間で動いた案件の記録をまとめておけ」
「承知しました。……スカウトの件は」
「三日待つ」
「……なるほどであります」
「それだけだ」




