第21話 ハラスメント禁止規定
就業規則の正式通知から三日が経った。
問い合わせが届き始めたのは、二日目の午後からだった。最初の束をゴルがまとめて持ってきた。差出人は北方第一軍・補給部・魔導研究部・その他合わせて六部門。内容はほぼ一点に集中していた。
第三条。ハラスメント禁止規定。
「各部門から、業務上の指摘と人格の否定の境界線を明確にしてほしい、という声が多うございます」
カイトは書類を受け取った。
「わかった。今日中に補足文書を出す。ゴル、具体的な事例を三件用意してくれ」
「どのような事例でありますか」
「実際の問い合わせ内容をもとに作る。匿名で書く。内容次第で、読んだ本人に気づかれることになるが、問題はない」
「承知しました」
ゴルが書類を控えに戻した。それからもう一言、付け加えた。
「……ヴェイル様が廊下で規定書をお読みになっておられます」
「そうか」
「二回目だと思われます」
「わかった」
カイトはペンを動かした。ゴルが出ていった。
---
午前中に、ガルガンが扉を叩いた。
入ってきたが椅子には座らない。腕を組んで立っている。
「訊いていいか」
「どうぞ」
「俺はよく怒鳴る。それは全部ハラスメントか」
カイトは手を止めた。
「内容によります。部下の判断ミスを指摘するのはセーフです。人格を評価するのはアウトです」
「……人格を評価するとは」
「『その作戦は間違いだった』はセーフです。相手の行動に対する評価だからです。『役立たずだ』はアウトです。相手の人間としての価値を評価しているからです」
ガルガンは少し考えた。
「……昨日、兵士に言った」
「何と言いましたか」
「……役立たずと」
「アウトです」
間があった。ガルガンは腕の組み方を変えた。
「……では何と言えばいい」
「『その判断は間違いだ。理由を説明しろ』と言えばいい。相手に考えさせます。怒鳴るより伝わります」
「……怒鳴らなくても伝わるのか」
「試してみてください」
ガルガンは黙っていた。信じきれていないというより、頭の中で場面を当てはめているような間だった。
「……難しいな」
「最初は難しいです。慣れます」
「……慣れるものか」
「ガルガンさん、三日前に有給という概念を初めて知った兵士たちが、今日からシフトの調整を自分で考え始めています。人間は慣れます」
ガルガンは短く舌打ちした。反論ではなく、どう返すか見つからない時の音だとカイトはすでに把握していた。
「……そうか」
それだけ言って、出ていった。
---
午後に入ってから、カイトは補足文書の作成のために一度廊下に出た。ゴルへの追加指示が必要だったからだ。
角を曲がったところで、ヴェイルが廊下の窓際に立っていた。規定書を手に持って、じっと読んでいた。カイトが通りかかっても顔を上げなかった。視線は紙の上に固定されたままだった。
カイトはそのまま通り過ぎた。声はかけなかった。
---
昼過ぎに、シルヴィアが来た。
廊下に杖の音が聞こえてから、扉が押し開けられた。シルヴィアは就業規則の写しを手に持っていた。特定の頁に折り目がついている。昨日のうちに読んでいたということだ。
「ひとつ確認させろ」
「どうぞ」
「わしが若い魔導師を深夜に呼びつけるのは、どちらに入る」
「アウトです」
間を置かなかった。シルヴィアが目を細めた。
「……即答か」
「例外の要件に当てはまりません」
「例外があるのか」
「緊急の研究課題があり、その者の技術が必要で、他に代替手段がない場合は業務上の判断として許容されます。三条件が揃う場合のみです」
シルヴィアは写しに目を落とした。頁を確かめるような間があった。
「……深夜に研究が佳境に入るのは、わしにとって本当のことだ」
「それは個人の事情です。規定は組織の基準です」
「……そう言い切るか」
「条文にそう書いてあります」
シルヴィアはしばらくカイトを見ていた。老いた目の奥に何かが動いた。反論の言葉を探しているのではなく、この答えが正しいかどうか自分の中で測っているような目だった。長年積み上げてきた研究者としての論理が、この条文の前で黙りこくっている。そういう間だった。杖が一度だけ、低く床を叩いた。それから止まった。
「……お前はわしに何度そう言い切るつもりだ」
「規定がある限り、必要なだけです」
「……む」
何か言いかけて、口を閉じた。写しを丁寧に折り畳んで、懐に入れた。
「……記録されているとのことだったな」
「ゴルが担当しています」
「……わかった」
杖の音が遠ざかっていった。
---
夕方、ゴルが茶と補足文書の最終稿を持ってきた。
「全部門への配布は明朝でありますか」
「今日中に回せるなら今日でいい。遅くとも明朝だ」
「承知しました」
ゴルが書類を机の隅に置いた。それから少し間を空けて、言った。
「……ヴェイル様が廊下で規定書をお読みになる回数が、本日で四回になりました。長官に質問には来ておられますか」
「来ていない」
「……来ないのは、疑問がないということでありますか」
「来ないのは、自分で答えを出しているということだ」
「……なるほどであります」
カイトは茶を一口飲んだ。補足文書をもう一度確認した。ガルガンから受けた質問をもとに書いた事例が三件ある。同じ疑問を持つ者が多いほど、具体例は機能する。
「ガルガンの件は匿名にしたが、読めばわかる者にはわかる。一応、先に伝えておく」
「ガルガン様に直接ですか」
「廊下で声をかけるだけでいい。今日中に済ませる」
「承知しました」
ゴルは出ていきかけて、扉の前で止まった。
「……長官。有給休暇の申請書は、いつ出せばいいでありますか」
「シフトが決まってからだ」
「……シフトはいつ出ますか」
「今月中だ」
「……今月は何日あとでありますか」
「十二日だ」
「……では十二日以内でありますか」
「そうだ」
「……承知しました」
ゴルがようやく出ていった。静かになった執務室で、カイトは補足文書の最後の一行を書き加えた。
---
翌朝、ガルガンがまた来た。
昨日より少し早い時間だった。扉を開けるのに、わずかだが間があった。
「昨日、試してみた」
「どういう結果でしたか」
「兵士が驚いていた」
「そうでしょう」
「……怒鳴らなかったのに、伝わった」
カイトは何も言わなかった。
「……なぜだ」
「理由を言ったからです。怒鳴ることで相手が動くのは、恐怖が原因です。理由を言って相手が動くのは、納得が原因です。見た目は同じでも、組織に積み重なるものが違います。前者は恐怖が消えたら動かなくなります。後者は理由が正しければ次からも動きます」
ガルガンは長い間、黙っていた。今日は腕を組んでいなかった。それだけのことだったが、カイトはそこに気づいた。
「……そうか」
「他に確認事項はありますか」
「……ない」
ガルガンが出ていった。廊下の足音が遠ざかっていく。
問い合わせは今日以降も続くだろう。規定は読まれただけでは機能しない。実際の場面に当てはめて初めて意味を持つ。それは最初からわかっていた。
ヴェイルはまだ一度も来ていない。それでいい。自分で当てはめているということだ。廊下で繰り返し規定書を読んでいるのは、自分の過去の言動を一件ずつ照合しているからだろう。それを質問にせず自分で処理しようとしているのは、もう言い訳の出口を探していないということでもある。
問い合わせは今日以降も続くだろう。それは規定が読まれているということだ。読まれなければ、そもそも問い合わせは来ない。
松明の明かりの中で、次の書類を引き寄せた。




