第20話 就業規則、草案
机の上に、真っ白な羊皮紙が広がっていた。
カイトはペンを走らせながら、項目を順番に埋めていく。第一条、第二条、第三条。条文のあとに根拠となる数値を入れ、例外規定を付記し、適用範囲を明記する。これまで軍が明文化してこなかったものを、全部この紙に落とし込む。
曖昧な条文は必ず抜け穴を生む。感情論で運用するルールは属人化する。どちらも組織には毒だ。
こういう仕事は、前の会社で何度もやった。ただあの頃作っていたのは、守らせるためではなく守っているように見せるための書類だった。今作っているのは違う。実際に機能させるための条文だ。
書き終えた頁を脇に置いて、次の羊皮紙を引き寄せたところで扉が開いた。
「長官。盗掘者への第二便通知、九名分の返答が揃いました」
ゴルが記録書を抱えて入ってきた。茶の盆も一緒だ。
「内訳は」
「退職希望が四名、返済意向が五名であります。うち三名が返済条件の詳細確認を希望しております」
「わかった。条件照合は今日中に済ませる。残る七名への通知は明日に回す」
「承知しました。それと、フォルカ様から輸送路計算書が届いております」
ゴルが書類を机の隅に置いた。厚みがある。
「計算書は夕刻に見る。今は草案を仕上げる」
「承知しました」
ゴルが茶を置いて、机の上の羊皮紙の束に目を留めた。
「……その書類は、何でありますか」
「就業規則だ」
「しゅうぎょう……きそく」
「軍全体の労働条件を文書にまとめたものだ。働く時間、休む権利、禁止行為の定義、処罰の基準。全部この中に入る」
ゴルが横から羊皮紙を覗き込んだ。黙って一行ずつ目で追っていく。しばらくして、ある箇所で止まった。
「……第三条。有給休暇制度の導入」
「そうだ」
「有給……とは何でありますか」
「休んでも給与が出るということだ」
長い沈黙があった。
「……休んでいいのでありますか」
「いい」
「……本当でありますか」
「本当だ」
「休んでいるのに、給与が出るのでありますか」
「そうだ」
ゴルはしばらく羊皮紙を見つめたまま動かなかった。この反応は予測の範囲内だった。概念が存在しない場所に言葉を置いても、すぐには接続されない。時間をかけて染み込んでいくものだ。
「長官が休んでいるところを、ゴルはこの砦で一度も見たことがないのでありますが」
「それとこれとは別の話だ」
「……承知しました」
ゴルは何か言いかけて、口を閉じた。それから記録書を机の隅に置いて、静かに出ていった。
部屋が静かになった。
カイトはペンを持ち直して、第四条の書き込みを再開した。ゴルがいずれ有給を取ることになるとしたら、そのゴルが取れるよう先にシフトを設計しておかなければならない。条文は作って終わりではない。動かして初めて意味を持つ。
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昼前に、ガルガンが扉を叩いた。
「少し訊いていいか」
「どうぞ」
呼んでいないのに向こうから来た。就業規則の写しが各部門長に回っているということだ。
ガルガンは入ってきて、椅子には座らず腕を組んだまま立った。
「有給休暇の話だが。敵が攻めてきたら、どうする」
「シフト制で交代要員を常時配置します。誰かが休んでいても、対応できる人員が残るようにする。だから有給が取れる」
「……つまり、俺の部下が休んでいる間に敵が来ても、残った奴が対応するということか」
「そうです。シフトを組む段階で、有事対応の最低人員数を設定します」
「そのシフトは誰が組む」
「ガルガンさんが組んでください。月次で提出してもらいます」
ガルガンは組んだ腕をほどかなかった。視線が机の上の羊皮紙に向く。
「……手間だな」
「最初の二ヶ月で型を作ってしまえば、あとは修正だけです」
ガルガンはしばらく黙っていた。何かを考えているというより、言葉を選んでいるように見えた。
「……兵士が休める、ということか」
「そうです」
また間があった。
「……わかった」
それだけ言って、ガルガンは出ていった。問いが最後に変わっていた。「手間だ」から「兵士が休める」へ。腹に落ちたのだろう。
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次はシルヴィアが来た。杖の音が廊下に響いてから、扉が押し開けられた。
「ちょっと訊かせろ」
「どうぞ」
シルヴィアは就業規則の写しを手に持って入ってきた。すでに一読してきたということだ。
「シフト制とは……わしも番を組まれるのか」
「魔導部門も対象です」
「……む」
拒絶でも承認でもない、咀嚼中のような一音だった。
「研究業務が深夜にかかりやすいことは考慮します。シフト設計の段階で、魔導部門の業務特性を反映させます」
「わしが研究の都合に合わせて動くのは当然だが……」
シルヴィアは写しの一点を指で叩いた。
「ここだ。ハラスメント禁止規定、とある。業務上の指摘は許容、人格の否定は禁止」
「そうです」
「深夜に若い者を呼びつけるのは、どちらに入る」
「状況によります。緊急の研究課題があり、その者の技術が必要で、他に代替手段がない場合は業務上の判断として許容されます。そうでない場合は禁止行為に分類されます」
「……判断するのは誰だ」
「第三者の記録に基づいて判断します」
シルヴィアは条文を読み続けた。杖が一度だけ床を軽く鳴らし、そのまま止まった。
「……精緻に書いておるな」
「抜け穴があると意味がない」
「わしはこの規定に従えるか、と思って来た」
「従えなければ処罰の対象になります」
「……そう言い切るか」
「条文にそう書いてある」
シルヴィアはしばらくカイトを見ていた。長い年月をかけて固まったものを、そう簡単には崩せない。それはわかっている。ただ、この老いた魔導師が写しを自分で持って来て、自分から問いに来たという事実は動かない。
「……もう一度読む」
写しを丁寧に折りたたんで、懐に入れた。杖の音が遠ざかった。
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夕刻、カイトは完成した草案を手に謁見室へ向かった。
ルシフェラは玉座にいた。カイトが入ってきたことには気づいているはずだが、視線を向けるまでに少し間があった。
「就業規則の草案が完成しました。確認をお願いします」
書類を差し出すと、ルシフェラは手を伸ばして受け取った。
謁見室が静かになる。
ルシフェラが一条ずつ目を追っていくのが、視線の動きでわかった。有給休暇の条文で一度止まった。ハラスメント禁止規定の箇所でもう一度止まった。そのまま最後まで読み、書類を膝に置いた。
「……続けよ」
「ありがとうございます。明日から全部門へ正式通知します」
「……余も有給を取るのか」
少し間があった。
「就業規則の適用対象は、この軍に雇用される者です。陛下は統治者ですので、雇用される立場にはありません。適用外です」
「……そうか」
ルシフェラは書類をカイトに返した。その動作は、承認の所作として十分だった。
「明日から通知せよ」
「承知しました」
謁見室を出ると、廊下にゴルが待っていた。
「承認されましたか」
「された」
「……では、ゴルは有給をいつ取ればよいでありますか」
「シフトが決まってから判断してくれ。明日は通知初日だ」
「……明後日は」
「それも状況次第だ」
「……承知しました」
ゴルはそれ以上何も言わなかった。ただ、廊下を並んで歩きながら、先ほどより少しだけ背筋が伸びているように見えた。
執務室に戻って、フォルカから届いた輸送路計算書を手に取った。厚みのある書類だ。数字を追い始めると、思っていたより緻密な仕事だとわかった。
迂回案の根拠が、コストだけでなく季節ごとの路面状況まで考慮して書いてある。
「……フォルカは、こういう仕事をしていたのか」
誰に言うでもなく、そう思った。




