第九十七話「賢者の回想と、旅の終わり」
バベル・ガーデン、賢者メルキオラスの研究室。
深夜。
魔石ランプの淡い光だけが灯る静寂の部屋で、黒いクマのぬいぐるみは、一冊の古びた手帳を開いていた。
パラリ。
乾いた紙の音が、部屋の空気を揺らす。
「…懐かしいね」
そこに記されているのは、魔法の術式でも、世界の真理でもない。
ただの、旅の記録だ。
数千年に及ぶ、彼と――あの一人の少女の、長い長い旅の記憶。
メルキオラスは、ビーズの瞳を細め、遠い過去へと意識を飛ばした。
◆◇◆◇◆
あの日。
世界樹の根元で、彼女は膝を抱えていた。
『…誰?』
黒曜石のような瞳。
頭の上には、丸い熊耳。
世界を滅ぼせるほどの魔力を持ちながら、その姿はあまりにも小さく、心細げだった。
『僕はメルキオラス。…君は?』
『…真音』
それが、全ての始まりだった。
守り人として生み出され、世界樹という鳥籠に囚われていた少女。
彼女の孤独を埋めるため、僕は人間の体を捨て、この愛らしい(と評判の)ぬいぐるみの体に入り、彼女の「家族」になった。
『ねえ、くまちゃん。外の世界って、どんなところ?』
『そうだね。海があって、山があって…美味しいものがたくさんあるよ』
『行きたい!』
そして、旅が始まった。
蒼天竜ラズリを拾ったのも、その途中だったか。
あの頃のラズリは血気盛んで、僕の尻尾を噛みちぎろうとしてきたっけ。
そして、長い旅の果てに、僕たちはこの場所に戻ってきた。
世界樹の塔、バベル・ガーデン。
ここは、外の世界を知った真音が、最後に選んだ「終の棲家」だった。
『やっぱり…ここを、私の家にする。世界で一番、静かで、誰にも邪魔されない場所に』
彼女はそう言って、堅牢な壁を作り、引きこもった。
それから数千年。
静寂だけが支配する、穏やかな日々。
僕たちはそれで満足していた。…はずだった。
◆◇◆◇◆
あの日。
その静寂は、唐突な轟音と共に打ち砕かれた。
ズガァァァァァァンッ!!
壁が崩れ、土煙が舞い上がる。
雪崩れ込んできたのは、血に飢えた勇者軍と魔王軍。
彼らはここをただの戦場とみなし、土足で踏み荒らした。
『…うるさい』
真音の激怒。
圧倒的な力による鎮圧。
本来なら、そこで彼らを塵にして終わりだったはずだ。
だが、僕は提案した。
『殺すのは簡単だ。でも、それでは壊れた壁は直らない』
『じゃあ、どうすんのよ』
『働かせよう。…借金を背負わせて、死ぬ気で働かせて、償わせるんだ』
二億四千万ゴールド。
天文学的な数字。
それは、彼らに対する「罰」だった。
一生かかっても返しきれない鎖で縛り、一生ここでこき使ってやるつもりだった。
メルキオラスは、手帳のページをめくった。
そこには、日々の記録が記されている。
『○月×日。元勇者が畑を耕し始めた。腰が入っていない』
『○月△日。魔王軍のオークが、厨房でつまみ食いをしてルミナに叱られていた』
『○月☆日。…真音ちゃんが、兵士たちの作った演劇を見て、笑っていた』
いつからだろうか。
「罰」として与えたはずの時間が、「日常」へと変わっていったのは。
殺伐としていた兵士たちの目に、光が宿り始めた。
敵同士だった者たちが、肩を組んで笑い合うようになった。
そして何より。
孤独だった真音の周りに、いつも誰かがいるようになった。
「…計算外だったな」
メルキオラスは苦笑した。
賢者たる僕の計算を、彼らは軽々と超えていった。
債務という鎖は、いつしか「絆」という名の綱になり、この塔を一つに結びつけてしまったのだ。
「最初は、ただの労働力だった。…でも今は」
彼は窓の外を見た。
祭りの後の静けさが漂う街。
そこには、数千の命が安心して眠る、温かい空気が満ちている。
「…家族、か」
勇者も、魔王も、聖女も、密偵も。
みんな、この家の食卓を囲む家族になった。
数千年の旅路の果てに、僕たちが手に入れたもの。
それは、静寂よりもずっと騒がしくて、ずっと温かい「宝物」だった。
◆◇◆◇◆
ギィィ…。
不意に、研究室の扉が開いた。
「――ねえ」
顔を出したのは、パジャマ姿の真音だった。
抱きかかえた白い毛玉と一緒に、眠そうな目を擦っている。
「くまちゃん、まだ起きてるの?」
「やあ、真音ちゃん。…少し、考え事をしていてね」
メルキオラスは手帳を閉じた。
真音はペタペタと裸足で歩み寄り、メルキオラスの隣の椅子に座り込んだ。
「なに?難しい本?」
「いいや。…昔のことを、思い出していたんだよ」
メルキオラスは優しく言った。
「君と出会った日のこと。ラズリと旅をしたこと。…そして、あのうるさい連中が転がり込んできた日のこと」
「うげぇ」
真音は露骨に嫌そうな顔をした。
「思い出したくないわよ。壁は壊されるわ、庭は荒らされるわ…最悪だったじゃない」
「あはは。そうだね」
「でも…」
真音は机に突っ伏し、モフモフの背中を指でつついた。
「…今は、悪くないかも」
ボソリと呟く。
その横顔は、数千年前の孤独な少女のそれとは違っていた。
愛され、守られ、そして多くのものを背負って立つ、満たされた「王」の顔だ。
「楽しかったかい?ここまでの旅は」
メルキオラスが尋ねる。
真音は少し考えて、それから顔を上げ、ニカっと笑った。
「うん!…最高にね!」
迷いのない言葉。
それだけで、全てが報われた気がした。
「そっか。…僕もだよ」
メルキオラスは、短い手で真音の頭を撫でた。
「君と過ごした日々は、僕の宝物だ。…世界中のどんな魔導書よりも、価値がある」
「…なによ、急に」
真音は照れくさそうに顔を赤くし、熊耳をパタパタさせた。
「湿っぽいのはなしよ。…ほら、もう寝るわよ。明日はルミナが朝から会議だって張り切ってたし」
「そうだね。彼女には敵わないや」
真音は立ち上がり、大きなあくびをした。
「おやすみ、くまちゃん」
「おやすみ、真音ちゃん」
彼女が部屋を出ていく。
その小さな背中を見送りながら、メルキオラスは手帳を引出しに仕舞った。
旅は終わった。
かつての、宛てのない放浪の旅は。
だが、ここからは新しい旅が始まる。
「生活」という名の、終わりのない冒険が。
「…さて」
メルキオラスはランプを消した。
暗闇の中で、彼は満足げに微笑んだ。
「明日は、どんな騒動が起きるかな」
賢者の長い夜が明ける。
窓の外では、世界樹が静かに、そして力強く、新しい朝の光を浴びて輝き始めていた。
(第九十七話 完)




