第九十六話「労働契約の終了と、自由への扉」
バベル・ガーデン、総務部長執務室。
ルミナは、デスクの上に置かれた一枚の羊皮紙を、静かに見つめていた。
『バベル・ガーデン修復工事完了報告書』。
その最下段にある承認欄に、震える手で最後の捺印を押す。
朱色のインクが紙に吸い込まれていく。
それは、数十ヶ月に及ぶ激闘の終わりを告げる音だった。
「…終わりました」
ルミナはペンを置き、眼鏡を外して目頭を押さえた。
廃墟と化した上層。絶望的なスタート。
勇者軍と魔王軍の残党を強制労働させ、つぎはぎだらけの集団をなんとかつないだ日々。
それら全てが、走馬灯のように駆け巡る。
「…感傷に浸っている場合ではありませんね」
彼女は眼鏡をかけ直し、キリッと表情を引き締めた。
まだ、最後の仕事が残っている。
管理者として、彼らに「自由」を告げる義務が。
ルミナは報告書を抱え、窓の外を見た。
眼下の広場には、すでに数千の住民たちが集まり、運命の刻を待っていた。
◆◇◆◇◆
第三居住区画、中央広場。
静寂。
数千人がひしめき合っているとは思えないほど、静まり返っている。
誰もが、壇上に現れた三つの影――賢者メルキオラス、大家・真音、そして総務部長ルミナを見上げていた。
ルミナが一歩前へ出る。
拡声魔法のマイクが、彼女の息遣いすら拾う。
「…報告します」
凛とした声が、青空に響き渡る。
「本日正午をもって、バベル・ガーデンの全修復工程における最終検査が終了。…全項目、合格」
ゴクリ、と誰かが唾を飲む音が聞こえる。
「これにより、当初の予定通り…」
ルミナは一度言葉を切り、全員の顔を見渡した。
泥だらけになって働いたオーク。傷だらけの手をした人間。
彼らの瞳が、真っ直ぐに自分を見ている。
「修復作業は、完全に完了しました!よって、貴方たちとバベル・ガーデンとの間に結ばれた『強制労働契約』は、只今をもって全て終了とします!」
一瞬の空白。
風が吹き抜ける音だけが聞こえ――。
ワアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!
爆発的な歓声が、空を割った。
抱き合う者、拳を突き上げる者、その場に泣き崩れる者。
終わったのだ。
長い長い、償いの労働が。
「…さて」
歓声が落ち着くのを待ち、メルキオラスが前に出た。
黒いクマのぬいぐるみが、杖を高く掲げる。
「契約は終わった。…次は、呪縛を解く番だね」
彼が杖を振るうと、広場全体を巨大な魔法陣が包み込んだ。
光の粒子が舞う。
それは、彼らの首に巻き付いていた「隷属の首輪」を霧散させる儀式だ。
「――解放」
パリンッ…!
硬質なガラスが割れるような音が、一人一人の耳元で響いた。
同時に、彼らの首元にあった重圧が消え失せた。
「…消えた」
「首輪が解けたぞ…!」
兵士たちが自分の首を触る。
もう、持ち場から離れても締め付けられることはない。
命令に背いても激痛が走ることはない。
「これで、君たちは完全に自由だ」
メルキオラスは優しく告げた。
「門は開かれている。…どこへ行くのも、何をすのも、君たちの自由だ。誰も止める権利はない」
広場の入り口にある大ゲートが、ギギギ…と音を立てて開放された。
その先には、外の世界へと続く街道が伸びている。
故郷へ帰る道。自由への道だ。
シーン…。
再び、静寂が訪れる。
誰も動かない。
誰も、ゲートの方を見ようともしない。
壇上の真音は、その光景をじっと見つめていた。
頭の上の熊耳が、不安げにピクリと震える。
(行っちゃうのかな。…やっぱり、自由の方がいいのかな)
そんな不安が、彼女の胸をよぎる。
その時。
一人の男が手を挙げた。
元勇者軍のマルコだ。隣には、オークのゴーグがいる。
「…あの、質問いいですか!」
マルコの大声が響く。
「なんだい?」
「自由ってことは…俺たちは今日から、『ただの住民』ってことでいいんですか!?」
その問いに、メルキオラスは目を丸くし、そして吹き出した。
「あはは!そうだね。…ただの、市民だ」
その言葉を聞いた瞬間。
マルコはニカっと笑い、持っていた帽子を地面に叩きつけた。
「よっしゃあああ!聞いたか野郎ども!俺たちは今日から、この国の市民様だ!」
「おう!誰に遠慮することなく、堂々とここに住めるぞ!」
ゴーグが野太い声で叫ぶ。
それを皮切りに、広場中の空気が一変した。
「帰る?バカ言え!俺の家はここだ!」
「母ちゃん呼び寄せたばっかりなんだよ!出ていくわけねぇだろ!」
「ヴォルグさんの晩飯まで待てねぇ!早く食堂開けてくれ!」
誰も、ゲートに向かわない。
それどころか、全員が壇上の真音たちに向かって、満面の笑みで手を振っている。
「帰らない」という選択。
それが、彼らの出した「自由意志」の答えだった。
「…なによ、それ」
真音は呆気にとられた。
てっきり、何割かは帰ると思っていた。
あるいは、感動的な別れのシーンになると思っていた。
なのに、こいつらは。
「…図々しいんだから」
真音は唇を尖らせた。
でも、視界が滲んで、みんなの顔がよく見えない。
「…ぐすっ」
彼女は袖で乱暴に目を拭った。
ルミナがハンカチを差し出そうとして、自分も泣いていることに気づいて止まる。
メルキオラスも、ラズリも、みんな笑いながら泣いている。
「――ねえ!」
真音は一歩前へ出た。
マイクなんていらない。
彼女の地声が、広場の隅々まで届く。
「アンタたち!…本当にいいのね!?」
彼女は叫んだ。
「ここは魔王がいるし!お風呂は熱いし!大家は我儘で乱暴よ!?それでもいいのね!?」
「「「望むところだァーーーッ!!!!」」」
数千人の即答。
もはや、議論の余地はない。
「…バカばっかり」
真音は破顔した。
涙でぐしゃぐしゃの、最高に可愛い笑顔。
「ありがと…!みんな、大好きよ!」
彼女は両手を広げた。
その小さな体で、広場にいる全員を抱きしめるように。
「これからも…よろしくね!」
ワアアアアアアアアッ!!!
三度目の大歓声。
それは、修復完了の歓声ではない。
新しい生活、新しい関係の始まりを告げる、産声のような歓喜の歌だった。
◆◇◆◇◆
その日の夕暮れ。
広場には、即席の宴会場が作られていた。
もう「祝賀会」という名目すら必要ない。
ただ一緒にいたいから飲む、それだけの理由。
真音は、テラスの手すりに腰掛け、その光景を眺めていた。
足元には、すっかり馴染んだモフモフ。
隣には、メルキオラスとラズリ。
「…終わったね」
「うん。…そして、始まった」
真音は、修復された塔の外壁を見上げた。
継ぎ接ぎだらけだった壁は、今は滑らかな石材で覆われ、夕日を受けて黄金色に輝いている。
人々の営みが息づく『バベル・ガーデン』。
「ねえ、くまちゃん」
「ん?」
「私、思うんだけど」
真音は、自分の手のひらを見つめた。
小さな手。
でも、この手で掴んだものは、とても大きい。
「自由って…『一人でいられること』じゃなくて、『帰る場所を選べること』なのかもね」
「…名言だね」
メルキオラスは感心したように頷いた。
「彼らは選んだんだ。故郷ではなく、ここを。…君の隣をね」
「物好きな連中よ」
真音は照れ隠しにスライム・ドロップを口に放り込んだ。
甘い。
そして、胸の奥が温かい。
「…さあ、行くわよ!」
真音はテラスから飛び降りた(低空飛行魔法付き)。
着地した先は、宴のど真ん中。
「大家様だ!」
「こっちの肉、焼けてますぜ!」
兵士たちがわらわらと集まってくる。
真音は、差し出されたジョッキ(中身はジュース)を高々と掲げた。
「乾杯ッ!…私たちの『家』に!」
「「「乾杯ッ!!!!」」」
グラスが触れ合う音が、星空に響き渡る。
労働契約は終わった。
けれど、彼らの絆という契約は、永遠に解けることはないだろう。
自由への扉は開かれた。
そして彼らは、その扉をくぐり抜け――またこの場所へと、笑顔で戻ってきたのだった。
(第九十六話 完)




