第九十三話「大家の演説と、新憲章の発布」
バベル・ガーデン、第三居住区画・展望テラス裏の控え室。
普段は昼寝と盗み食いしかしないこの部屋に、今日は異様な緊張感が張り詰めていた。
「…うぅ」
鏡の前で、大家・真音は唸っていた。
いつものエプロンドレスではない。
ルミナとリッカがよってたかって仕立てた、純白の儀礼用ドレス。
フリルとレースがふんだんに使われ、頭の上の熊耳には小さなティアラが乗っている。
「…似合わない。絶対似合わない」
「そんなことないよ。世界一可愛い大家さんだ」
メルキオラスが、足元でポンポンと膝を叩いて励ます。
「でも…私、演説なんてしたことないし。噛んだらどうしよう。転んだらどうしよう」
「大丈夫。転んでもラズリが受け止めるし、噛んだら僕がフォローする。…それに」
メルキオラスは、窓の外を指差した。
「みんな、君の言葉を待っているんだ。上手な言葉じゃなくていい。…君の『本音』をね」
真音は深呼吸をした。
肺いっぱいに、世界樹の香りを吸い込む。
「…よし。…行くよ!」
彼女は自分の頬をパチンと叩き、扉を開けた。
◆◇◆◇◆
第三居住区画、中央広場。
そこは、人の海だった。
元兵士たち、その家族、冒険者、商人、そして魔法学院の学者たち。
総勢五千人を超える住民たちが、固唾を飲んでテラスを見上げている。
かつての殺伐とした空気は微塵もない。あるのは、これから始まる新しい時代への期待だけだ。
カツ、カツ、カツ…。
拡声魔法のマイクの前に、小さな少女が歩み出た。
風が吹き、純白のドレスと黒髪がふわりと舞う。
シーン…。
広場が静まり返る。
数千の視線が、真音一人に突き刺さる。
(うっ…やっぱ怖い)
真音の足がすくむ。
頭が真っ白になりかけた、その時。
『我が君よ。胸を張ってください』
頭の中に、ラズリの声が響いた。
テラスの影で、小さな猫の姿をした蒼天竜が見守っている。
『貴方様は、この世界の誰よりも気高く、強い。…我らの誇りです』
(…ん。ありがと)
真音は小さく頷き、正面を向いた。
咳払いひとつ。
「…あー。えっと」
第一声は、少し裏返った。
会場のどこかから、クスクスと温かい笑い声が漏れる。
それで、逆に力が抜けた。
「…みんな、集まってくれてありがと」
真音は顔を上げ、広場を見渡した。
ヴォルグがいる。ハンカチで目を拭っている。
ガルシスがいる。腕を組んでニヤリとしている。
ルミナがいる。祈るように手を組んでいる。
マルコやゴーグ、リッカにセリーナ。
知っている顔がいっぱいある。
「私、難しい言葉は苦手だし、政治とかよく分かんないから。…思ったことだけ、言うね」
彼女は、自分の言葉で語り始めた。
「昔、ここは静かだった。…私と、くまちゃんと、ラズリだけ。毎日同じ景色で、毎日同じ時間で。…それが当たり前だと思ってた」
数千年の孤独。
それは、平穏という名の停滞だった。
「でも、アンタたちが来た。…最初はうるさくて、邪魔で、早く追い出したかった」
正直すぎる言葉に、苦笑が広がる。
「壁は壊すし、勝手に住み着くし、私のスライムいじめるし。…最悪だった」
真音は唇を尖らせた。
だが、すぐに表情を緩め、優しく微笑んだ。
「でもね。…今は、違う」
彼女は胸に手を当てた。
「今は…朝起きると、ご飯のいい匂いがする。お昼には、みんなが働く音が聞こえる。夜には、明かりがいっぱい灯って、笑い声がする」
真音の瞳が潤む。
「うるさいけど。…寂しくないの」
その一言が、広場にいた全員の胸を打った。
最強の大家の、等身大の弱音と、感謝。
「ヴォルグのご飯は美味しいし、ガルシスのお風呂は気持ちいいし、ルミナは小言が多いけど頼りになるし、アレクセイは大好きなスライム・ドロップ作ってくれるし。…みんながいるから、私は今、毎日が楽しい」
真音は大きく息を吸い込み、叫んだ。
「だから!ここは私の家だけど…これからは、みんなの家にしてあげる!」
宣言。
それは、支配者からの許可ではない。
家族への招待状だ。
「一緒に暮らそう。…一緒に食べて、笑って、たまに喧嘩して。そうやって、ずっと一緒に生きていこう!」
真音は両手を広げた。
「以上!…私の演説、おしまい!」
一瞬の静寂。
そして。
ワアアアアアアアアアアアアアッ!!!!
爆発。
歓声と拍手の爆発が、空気を震わせた。
今までで一番大きく、一番熱い喝采。
「大家様ぁぁぁ!一生ついていきますぅぅ!」
「俺たちの家だ!最高だァッ!」
泣き叫ぶ兵士たち。抱き合う家族たち。
真音は照れくさくなって、テラスの柱の陰に隠れようとしたが、メルキオラスに捕まった。
「逃げちゃダメだよ、真音ちゃん。…まだ、最後の大仕事が残ってる」
「えー…まだあんの?」
◆◇◆◇◆
メルキオラスは真音の横に並び、一枚の大きな羊皮紙を広げた。
金色の光を放つ、魔法契約書だ。
「静粛に!」
賢者の声が轟き、熱狂が波のように引いていく。
「たった今、大家・真音の意思は示された。…これより、その意思を『法』として刻む」
メルキオラスは厳かに宣言した。
「『バベル・ガーデン憲章』の発布を行う!」
彼は羊皮紙を読み上げた。
『第一条。当バベル・ガーデンは、いかなる国家にも属さない、独立した自治共同体である』
『第二条。全ての住民は、種族・出身を問わず平等であり、幸福を追求する権利を持つ』
『第三条。…』
次々と読み上げられる条文。
それは、かつてルミナたちが作った草案を、メルキオラスがより強固な「契約魔法」として昇華させたものだ。
この憲章がある限り、ここは誰にも侵されない聖域となる。
「そして、最終条」
メルキオラスは、横にいる真音を見た。
真音はニヤリと笑った。
『この塔の全ての決定権は、大家である私にある!…私の昼寝を邪魔する奴は、デコピンの刑に処す!』
ドッ、と笑いが起きる。
これぞバベル・ガーデン。
厳格さと、緩さの同居。
「…憲章を支持する者は、拳を掲げよ!」
メルキオラスの呼びかけに、五千の拳が空に突き上げられた。
反対者は一人もいない。
「契約、成立!」
カッ!!
羊皮紙が光り輝き、無数の光の粒子となって空へ舞い上がった。
光は世界樹に吸い込まれ、その葉脈を黄金色に輝かせる。
ザワザワザワ…。
世界樹が、喜ぶように枝を揺らした。
「…綺麗」
真音は、光り輝く自分の家を見上げた。
それは、新しい国の産声だった。
◆◇◆◇◆
式典が終わった後の控え室。
真音はドレスを脱ぎ捨て、いつものエプロンドレスに着替えていた。
「ふーっ!疲れた!肩凝った!」
ソファにダイブし、モフモフを抱きしめる。
「お疲れ様でした、大家様」
ルミナが紅茶を持って入ってきた。
その目は赤く腫れている。
「…泣きすぎよ、ルミナ」
「だって…あんなに立派なスピーチを…!私、感動して…!」
「はいはい。鼻水拭いて」
真音は呆れつつも、ルミナから紅茶を受け取った。
「…でも、これでやっと落ち着くわね」
「ええ。対外的にも、対内的にも、バベル・ガーデンの基盤は盤石です。これからは、発展あるのみですね」
ルミナは眼鏡を光らせ、すでに次の仕事(祝賀会の経費計算)に取り掛かっている。
たくましいものだ。
「ねえ」
真音は窓の外を見た。
夕焼けに染まる街。
そこには、もう「廃墟」の面影はない。
「私、いい大家さんになれたかな?」
ボソリと呟く。
ルミナは手を止め、真音を真っ直ぐに見た。
「いいえ」
「え?」
「『いい大家さん』ではありません。…貴女は、世界一『愛されている大家さん』です」
ルミナは誇らしげに微笑んだ。
「…ふん。調子いいこと言っちゃって」
真音は顔を赤くし、スライム・ドロップを口に放り込んだ。
甘酸っぱい味が広がる。
それは、達成感の味だった。
バベル・ガーデン憲章の発布。
それは歴史の教科書に載る偉業だが、真音にとっては「家族のルールブック」ができただけのこと。
明日からもまた、騒がしくて、面倒で、最高に楽しい日常が続いていく。
真音は大きく伸びをして、熊耳を揺らした。
「さあ、お腹すいた!ヴォルグに特大ハンバーグ作らせるわよ!」
「はい!お供します!」
二人は笑いながら部屋を出て行った。
その足音は、未来へと続く確かなリズムを刻んでいた。
(第九十三話 完)




