第九十二話「密偵の新生活と、情報部の設立」
バベル・ガーデン第一層、正面ゲート。
平和だ。
あまりにも、平和すぎた。
「…異常なし」
警備班の制服に身を包んだセリーナは、あくびを噛み殺すゴブリン兵の横で、鋭い視線を街道に向けていた。
聖王国諜報部『灰鷹』。
かつてそう呼ばれた彼女のスキルは、この平和な受付業務においては、完全にオーバースペックだった。
(商人の荷車の車軸のきしみ音から積載重量を推測、偽装なし。冒険者の歩き方から負傷箇所を特定、危険度低。…退屈ね)
セリーナは小さく嘆息した。
この場所が好きだ。
ここを「家」と定めたことに後悔はない。
だが、自身の能力を腐らせておくことへの焦燥感は、プロフェッショナルとしての性だった。
「…使い潰してもらわなきゃ、困るのよ」
彼女は警棒を腰に収めると、交代の時間に合わせて詰め所を後にした。
向かう先は、この塔の頭脳――総務部長室だ。
◆◇◆◇◆
総務部長執務室。
書類の山に埋もれていたルミナは、セリーナの来訪に顔を上げた。
「お疲れ様です、セリーナさん。…何かトラブルでも?」
「いいえ。トラブルがないことが、私の悩みです」
セリーナはルミナのデスクの前に立ち、単刀直入に切り出した。
「総務部長。私を、もっと有効活用してください」
彼女はその灰色の瞳で、ルミナを真っ直ぐに見据えた。
「ゲートの警備なら、ギズモ隊長の部下たちで十分です。私の本領は『情報』。…見えざる脅威を察知し、未然に摘み取ることです」
ルミナの手が止まった。
彼女はペンを置き、眼鏡の位置を直した。
「…具体的には?」
「周辺諸国の動向監視、怪しい商人の素性調査、そして…この塔に仇なす可能性のある組織への逆浸透工作」
セリーナの声色が、一段低くなる。
それは、受付のお姉さんではない。かつての『灰鷹』の声だ。
「光が強くなれば、影も濃くなります。…バベル・ガーデンが発展すればするほど、嫉妬や悪意を持つ者も現れるでしょう。それに対処するための『目』と『耳』が必要です」
一拍の静寂。
そして、ルミナは満面の笑みを浮かべた。
「…待っていました、その言葉を」
ルミナは引き出しから、一枚の企画書を取り出した。
そこには『情報管理課(仮)』の文字があった。
「私も必要性は感じていましたが、適任者がいなくて困っていたのです。…貴女が名乗り出てくれるのを、待っていました」
「…準備がいいですね」
「総務ですから。…では、早速承認をいただきに行きましょうか。主の元へ」
◆◇◆◇◆
『樹洞の聖域』。
午後の穏やかな日差しの中、大家・真音は、新入りの魔獣モフモフを枕にして昼寝をしていた。
頭の上の熊耳が、寝息に合わせてピコピコと揺れている。
「…んー。なに、ルミナ」
気配に気づいた真音が、薄目を開ける。
「お昼寝中、失礼します。…新たな部署の設立許可をいただきに参りました」
ルミナが手短に説明する。
バベル・ガーデン情報部。
その初代部長に、セリーナを任命すること。
「ふーん」
真音は起き上がり、眠そうに目をこすった。
そして、傍らに控えるセリーナをジト目で見た。
「セリーナ、またコソコソする仕事に戻るの?」
「…はい。ですが」
セリーナは膝をつき、恭しく頭を垂れた。
「以前とは違います。かつては『奪う』ために潜みましたが…これからは、この場所を『守る』ために潜みます」
その言葉に、嘘はない。
真音は鼻を鳴らし、テーブルの上のクッキーを放り投げた。
「いいんじゃない?」
セリーナは空中でクッキーをキャッチした。
「好きにしなさい。ただし、無理して死んだりしたら承知しないわよ。…せっかく拾った命なんだから」
「…ッ!」
真音なりの、不器用な激励。
セリーナは胸が熱くなるのを感じた。
「肝に銘じます。…この命、バベル・ガーデンのために」
「重いってば。…ま、頼りにしてるわよ、諜報員さん」
真音は再びモフモフに顔を埋め、寝息を立て始めた。
隣で賢者メルキオラスが「よろしく頼むよ」と微笑む。
ここに、バベル・ガーデン情報部が正式に発足した。
◆◇◆◇◆
数日後。
第一層の奥深く、一般人は立ち入り禁止の区画に、看板のない小さな部屋が設けられた。
『資料室』とだけ書かれたその部屋こそが、情報部の司令室だ。
「…懐かしい匂いね」
インクと羊皮紙、そして微かな焦げ臭さ。
セリーナは椅子に深く腰掛け、集まってきた報告書に目を通した。
リッカの交易連盟からもたらされる各国の経済情報。
魔法学院のエリンから共有される魔力観測データ。
それらをパズルのように組み合わせ、未来の危機を予測する。
「失礼するであります!」
ドアがノックされ、警備隊長ギズモが入ってきた。
彼は部屋の薄暗さに少し顔をしかめたが、すぐに敬礼した。
「情報部長殿。…依頼されていた『不審な行商人リスト』、照合作業が完了したであります」
「早いわね、ギズモ隊長。助かるわ」
「我々の仕事は『表』を守ること。貴殿の仕事は『裏』を掃除すること。…役割分担であります」
ギズモは、机の上にリストを置いた。
かつては敵対していたゴブリンと人間。
表の武力と、裏の知略。
二つの歯車が、ガッチリと噛み合った瞬間だった。
「これで、ネズミ一匹通さない警備体制が作れるわ」
「頼もしい限りであります。…しかし、貴殿が味方で本当によかった。敵に回したら、これほど厄介な相手はいないでありますからな」
「あら、最高の褒め言葉ね」
セリーナは不敵に微笑んだ。
かつて聖王国最強の密偵と呼ばれた女の顔だ。
だが、その瞳には冷酷さはなく、家を守る番犬のような頼もしさが宿っていた。
◆◇◆◇◆
夕暮れ時。
仕事を終えたセリーナは、情報室の窓から、賑わう交易市を見下ろしていた。
笑い声。
料理の匂い。
子供たちが走り回る音。
「…ここが、私の守るべき場所」
かつては、破壊するためにここへ来た。
聖王国の正義を信じ、この笑顔を奪おうとしていた。
そんな自分が、今は誰よりも深く闇に潜り、この光を守ろうとしている。
「人生とは、分からないものですね」
彼女は呟き、胸元の『バベル・ガーデン市民証』に触れた。
コンコン。
控えめなノックと共に、ルミナが顔を出した。
「お疲れ様です、セリーナ部長。…初仕事の具合は?」
「上々です。すでに三件ほど、詐欺まがいの商談を水際で阻止しました」
「さすがですね。仕事が早くて助かります」
ルミナはコーヒーを差し出した。
セリーナはそれを受け取る。
「…ルミナさん」
「はい?」
「私に、居場所をくれて…ありがとうございます」
セリーナは、コーヒーの湯気の向こうで、恥ずかしそうに言った。
「私は、ずっと『道具』でした。国のための、使い捨ての刃。…でも、ここでは『家族』として扱ってくれる」
「ええ。当然です」
ルミナは自身のコーヒーを掲げた。
「貴女はもう、私たちの仲間ですから。…過去に何があったとしても、今、貴女がここで汗を流してくれている。それが全てです」
「…ふふっ」
セリーナの目から、一筋の涙がこぼれた。
それは悲しみの涙ではない。
再生の涙だ。
「貴女のような人材を得られて、光栄です。セリーナさん」
「私もです。…この身が朽ちるまで、この塔の影となりて、皆様をお守りします」
二人は握手を交わした。
鉄の女と呼ばれた総務部長と、灰鷹と呼ばれた元密偵。
似た者同士の二人の手は、驚くほど温かかった。
「さあ、帰りましょうか。今日はヴォルグ料理長が、新作の『スパイシー唐揚げ』を作っているそうですよ」
「それは聞き捨てなりませんね。急ぎましょう」
セリーナはコートを羽織り、部屋の明かりを消した。
闇に沈む情報室。
だが、そこはもう孤独な鳥籠ではない。
愛する家族を守るための、最強の砦なのだ。
バベル・ガーデン情報部。
その存在は公にはされないが、彼らの働きによって、塔の平和はより盤石なものとなっていく。
元密偵セリーナの新しい戦いは、まだ始まったばかりである。
(第九十二話 完)




