表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
92/100

第九十二話「密偵の新生活と、情報部の設立」

 バベル・ガーデン第一層、正面ゲート。


 平和だ。


 あまりにも、平和すぎた。


「…異常なし」


 警備班の制服に身を包んだセリーナは、あくびを噛み殺すゴブリン兵の横で、鋭い視線を街道に向けていた。


 聖王国諜報部『灰鷹』。


 かつてそう呼ばれた彼女のスキルは、この平和な受付業務においては、完全にオーバースペックだった。


(商人の荷車の車軸のきしみ音から積載重量を推測、偽装なし。冒険者の歩き方から負傷箇所を特定、危険度低。…退屈ね)


 セリーナは小さく嘆息した。


 この場所が好きだ。


 ここを「家」と定めたことに後悔はない。


 だが、自身の能力を腐らせておくことへの焦燥感は、プロフェッショナルとしてのさがだった。


「…使い潰してもらわなきゃ、困るのよ」


 彼女は警棒を腰に収めると、交代の時間に合わせて詰め所を後にした。


 向かう先は、この塔の頭脳――総務部長室だ。



◆◇◆◇◆



 総務部長執務室。


 書類の山に埋もれていたルミナは、セリーナの来訪に顔を上げた。


「お疲れ様です、セリーナさん。…何かトラブルでも?」


「いいえ。トラブルがないことが、私の悩みです」


 セリーナはルミナのデスクの前に立ち、単刀直入に切り出した。


「総務部長。私を、もっと有効活用してください」


 彼女はその灰色の瞳で、ルミナを真っ直ぐに見据えた。


「ゲートの警備なら、ギズモ隊長の部下たちで十分です。私の本領は『情報』。…見えざる脅威を察知し、未然に摘み取ることです」


 ルミナの手が止まった。


 彼女はペンを置き、眼鏡の位置を直した。


「…具体的には?」


「周辺諸国の動向監視、怪しい商人の素性調査、そして…この塔に仇なす可能性のある組織への逆浸透工作」


 セリーナの声色が、一段低くなる。


 それは、受付のお姉さんではない。かつての『灰鷹』の声だ。


「光が強くなれば、影も濃くなります。…バベル・ガーデンが発展すればするほど、嫉妬や悪意を持つ者も現れるでしょう。それに対処するための『目』と『耳』が必要です」


 一拍の静寂。


 そして、ルミナは満面の笑みを浮かべた。


「…待っていました、その言葉を」


 ルミナは引き出しから、一枚の企画書を取り出した。


 そこには『情報管理課(仮)』の文字があった。


「私も必要性は感じていましたが、適任者がいなくて困っていたのです。…貴女が名乗り出てくれるのを、待っていました」


「…準備がいいですね」


「総務ですから。…では、早速承認をいただきに行きましょうか。あるじの元へ」



◆◇◆◇◆



 『樹洞の聖域』。


 午後の穏やかな日差しの中、大家・真音は、新入りの魔獣モフモフを枕にして昼寝をしていた。


 頭の上の熊耳が、寝息に合わせてピコピコと揺れている。


「…んー。なに、ルミナ」


 気配に気づいた真音が、薄目を開ける。


「お昼寝中、失礼します。…新たな部署の設立許可をいただきに参りました」


 ルミナが手短に説明する。


 バベル・ガーデン情報部。


 その初代部長に、セリーナを任命すること。


「ふーん」


 真音は起き上がり、眠そうに目をこすった。


 そして、傍らに控えるセリーナをジト目で見た。


「セリーナ、またコソコソする仕事に戻るの?」


「…はい。ですが」


 セリーナは膝をつき、恭しく頭を垂れた。


「以前とは違います。かつては『奪う』ために潜みましたが…これからは、この場所を『守る』ために潜みます」


 その言葉に、嘘はない。


 真音は鼻を鳴らし、テーブルの上のクッキーを放り投げた。


「いいんじゃない?」


 セリーナは空中でクッキーをキャッチした。


「好きにしなさい。ただし、無理して死んだりしたら承知しないわよ。…せっかく拾った命なんだから」


「…ッ!」


 真音なりの、不器用な激励。


 セリーナは胸が熱くなるのを感じた。


「肝に銘じます。…この命、バベル・ガーデンのために」


「重いってば。…ま、頼りにしてるわよ、諜報員さん」


 真音は再びモフモフに顔を埋め、寝息を立て始めた。


 隣で賢者メルキオラスが「よろしく頼むよ」と微笑む。


 ここに、バベル・ガーデン情報部が正式に発足した。



◆◇◆◇◆



 数日後。


 第一層の奥深く、一般人は立ち入り禁止の区画に、看板のない小さな部屋が設けられた。


 『資料室』とだけ書かれたその部屋こそが、情報部の司令室だ。


「…懐かしい匂いね」


 インクと羊皮紙、そして微かな焦げ臭さ。


 セリーナは椅子に深く腰掛け、集まってきた報告書に目を通した。


 リッカの交易連盟からもたらされる各国の経済情報。


 魔法学院のエリンから共有される魔力観測データ。


 それらをパズルのように組み合わせ、未来の危機を予測する。


「失礼するであります!」


 ドアがノックされ、警備隊長ギズモが入ってきた。


 彼は部屋の薄暗さに少し顔をしかめたが、すぐに敬礼した。


「情報部長殿。…依頼されていた『不審な行商人リスト』、照合作業が完了したであります」


「早いわね、ギズモ隊長。助かるわ」


「我々の仕事は『表』を守ること。貴殿の仕事は『裏』を掃除すること。…役割分担であります」


 ギズモは、机の上にリストを置いた。


 かつては敵対していたゴブリンと人間。


 表の武力と、裏の知略。


 二つの歯車が、ガッチリと噛み合った瞬間だった。


「これで、ネズミ一匹通さない警備体制が作れるわ」


「頼もしい限りであります。…しかし、貴殿が味方で本当によかった。敵に回したら、これほど厄介な相手はいないでありますからな」


「あら、最高の褒め言葉ね」


 セリーナは不敵に微笑んだ。


 かつて聖王国最強の密偵と呼ばれた女の顔だ。


 だが、その瞳には冷酷さはなく、家を守る番犬のような頼もしさが宿っていた。



◆◇◆◇◆



 夕暮れ時。


 仕事を終えたセリーナは、情報室の窓から、賑わう交易市を見下ろしていた。


 笑い声。


 料理の匂い。


 子供たちが走り回る音。


「…ここが、私の守るべき場所」


 かつては、破壊するためにここへ来た。


 聖王国の正義を信じ、この笑顔を奪おうとしていた。


 そんな自分が、今は誰よりも深く闇に潜り、この光を守ろうとしている。


「人生とは、分からないものですね」


 彼女は呟き、胸元の『バベル・ガーデン市民証』に触れた。


 コンコン。


 控えめなノックと共に、ルミナが顔を出した。


「お疲れ様です、セリーナ部長。…初仕事の具合は?」


「上々です。すでに三件ほど、詐欺まがいの商談を水際で阻止しました」


「さすがですね。仕事が早くて助かります」


 ルミナはコーヒーを差し出した。


 セリーナはそれを受け取る。


「…ルミナさん」


「はい?」


「私に、居場所をくれて…ありがとうございます」


 セリーナは、コーヒーの湯気の向こうで、恥ずかしそうに言った。


「私は、ずっと『道具』でした。国のための、使い捨ての刃。…でも、ここでは『家族』として扱ってくれる」


「ええ。当然です」


 ルミナは自身のコーヒーを掲げた。


「貴女はもう、私たちの仲間ですから。…過去に何があったとしても、今、貴女がここで汗を流してくれている。それが全てです」


「…ふふっ」


 セリーナの目から、一筋の涙がこぼれた。


 それは悲しみの涙ではない。


 再生の涙だ。


「貴女のような人材を得られて、光栄です。セリーナさん」


「私もです。…この身が朽ちるまで、この塔の影となりて、皆様をお守りします」


 二人は握手を交わした。


 鉄の女と呼ばれた総務部長と、灰鷹と呼ばれた元密偵。


 似た者同士の二人の手は、驚くほど温かかった。


「さあ、帰りましょうか。今日はヴォルグ料理長が、新作の『スパイシー唐揚げ』を作っているそうですよ」


「それは聞き捨てなりませんね。急ぎましょう」


 セリーナはコートを羽織り、部屋の明かりを消した。


 闇に沈む情報室。


 だが、そこはもう孤独な鳥籠ではない。


 愛する家族を守るための、最強のとりでなのだ。


 バベル・ガーデン情報部。


 その存在は公にはされないが、彼らの働きによって、塔の平和はより盤石なものとなっていく。


 元密偵セリーナの新しい戦いは、まだ始まったばかりである。


(第九十二話 完)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ