第八十八話「勇者と魔王の邂逅と、新しい関係」
バベル・ガーデン、屋外展望テラス。
修復完了を祝う宴の熱気が、遥か下層から風に乗って微かに届く。
星空の下、一人の男が欄干に背を預け、夜風に吹かれていた。
かつての魔王、今はボイラー室の主、ガルシスである。
彼はグラスを片手に、修復された塔の外壁を、まるで我が子を見るような愛おしげな目で見上げていた。
「…ガルシス殿」
背後から声をかけると、魔王の肩が僅かに動いた。
ゆっくりと振り返るその瞳は、深紅に輝いている。
「…なんだ、牧場長か」
不機嫌そうに、しかし拒絶の色はなく、ガルシスは鼻を鳴らした。
私――元勇者アレクセイは、苦笑しながら彼の隣に並んだ。
「宴には戻らないのですか?主役の一人でしょう」
「フン。喧騒は好かん。それに、私の仕事は『熱』を管理することだ。酒に溺れて判断を鈍らせるわけにはいかん」
「相変わらず、真面目ですね」
「貴様こそ。スライムの世話はどうした」
「パチ子(雷スライム)たちが興奮して発電しすぎたので、今は寝かしつけてきたところです」
他愛のない会話。
だが、そのやり取りが自然に成立していることに、私は不思議な感慨を覚えた。
夜風が吹き抜ける。
私は、手に持っていた二つのグラスのうち、一つをガルシスに差し出した。
「…少し、話しませんか」
「…よかろう」
ガルシスはグラスを受け取った。
琥珀色の液体が、星月夜に揺れる。
◆◇◆◇◆
「…不思議なものですね」
私は夜景を見下ろしながら、ポツリと言った。
「あの時…僕は、貴方を殺すために旅をしていました」
数年前の記憶。
聖剣を握りしめ、憎悪と使命感に燃えていた日々。
魔王城への道のりは遠く、険しく、多くの血が流れた。
「貴方の首を獲り、世界に平和をもたらす。…それが、僕の存在意義の全てでした」
「…そうだな」
ガルシスが低く唸る。
「我もまた、玉座にて貴様を待っていた。…聖剣の光が近づくのを、肌で感じながらな。貴様を焼き尽くし、絶望に染めることだけを考えていた」
勇者と魔王。
光と闇。
出会えば必ず殺し合う運命にあった二つの魂。
「ですが、僕たちは出会ってしまった。…この、おかしな塔で」
私は自分の掌を見た。
剣ダコは消え、代わりにスライムの世話でついた無数の細かい傷と、薬品による荒れがある。
かつて世界を救うはずだった手は、今はただの飼育員の手だ。
「最後まで戦わなくて…よかった」
心からの本音が、口をついて出た。
「もしあのまま戦っていたら、どちらかが死んでいた。…こんなに美味い酒も、スライムの愛らしさも、知ることはなかったでしょう」
「…」
「貴方はどうですか?魔王様」
私は隣の巨魁を見上げた。
ガルシスは目を閉じ、グラスの中身を一息に煽った。
「…退屈だった」
「え?」
「魔王など、退屈な仕事だ」
ガルシスは空のグラスを弄びながら、遠い目をした。
「玉座にふんぞり返り、部下に命令を下し、怯える人間どもを見下ろす。…そこには『創造』がなかった。あるのは破壊と支配だけだ」
彼は、ボイラー室のある方向へ視線を向けた。
「だが、ここは違う」
その声に、熱が宿る。
「配管一本、バルブ一つに至るまで、私の計算と技術が反映される。湯加減一つで、あの我儘な大家が一喜一憂する。…あいつらの、『極楽だ』という間抜けな顔を見るたびに…」
ガルシスは言葉を切り、照れくさそうに顔を背けた。
「…悪くない気分になる」
「ふふっ」
私は思わず笑ってしまった。
「笑うな勇者!」
「いえ、失敬。…でも、同感です。世界を救うより、一匹のスライムを笑顔にする方が、ずっと難しいし、やり甲斐がある」
私たちは顔を見合わせた。
かつての敵。
今は、同じ「大家」に仕える、苦労を共にする同僚。
「ガルシス殿」
私は右手を差し出した。
剣を握るためではない。
友として、握手をするために。
「これからも、よろしくお願いします。…貴方の作るお湯、最高ですよ」
ガルシスは私の手を見つめ、そして「フン」と鼻を鳴らした。
その大きな手が、私の手を強く握り返す。
「当然だ。…貴様こそ、あの変な色のスライム、なかなか良い発光具合だったぞ」
ガシッ。
熱く、分厚い、職人の手。
そこには、種族も過去も超えた、確かな敬意があった。
◆◇◆◇◆
「ガハハハハ!なんだなんだ、水臭いぞ貴様ら!」
突如、豪快な笑い声が静寂を破った。
ドスン、ドスンと地響きを立てて現れたのは、巨大な盆を持ったオーク――総料理長ヴォルグだった。
「ヴォルグ殿!?」
「料理長、貴様、またつまみ食いを…」
「失礼な!これは『反省会』のための夜食だ!」
ヴォルグはドンッ!とテラスのテーブルに盆を置いた。
そこには、山盛りの唐揚げと、極太のソーセージ、そして樽のようなジョッキに入ったエールが並んでいる。
「宴の料理、少し余ったのでな。…ここで三人で片付けようと思って持ってきたのだ」
ヴォルグはニカっと笑い、私とガルシスの間に割って入った。
そして、太い腕を回し、私たちの肩を強引に組んだ。
「うおっ、苦しいですヴォルグ殿!」
「重い!脂臭いぞ!」
「ガハハ!細かいことは気にするな!」
ヴォルグは私たちが握手していた手の上に、自分の大きな手を重ねた。
「良い光景じゃあ。…勇者と魔王が、月夜に語り合うとはな」
ヴォルグの瞳が、優しく細められる。
「儂らは、数奇な運命でここに集まった。殺し合っていた命だ。…だが今、こうして同じ釜の飯を食っている」
彼は力を込めて言った。
「これ以上の『奇跡』があるか?…儂らはもう、敵でも味方でもない」
ヴォルグは空を見上げた。
そこには、修復を終えたバベル・ガーデンの巨体が、星空に向かって堂々とそびえ立っている。
「新しい『家族』だ」
――家族。
その言葉が、胸の奥にじんわりと染み渡った。
血の繋がりはない。種族も違う。
けれど、この塔の下で、同じ主(大家)に振り回され、同じ夢を見て、同じ苦労を分かち合う。
それは確かに、家族と呼ぶに相応しい絆だった。
「…フン。暑苦しい家族だ」
ガルシスが憎まれ口を叩くが、その口元は緩んでいる。
「ええ。…でも、世界一温かい家族ですね」
私も微笑んだ。
勇者としての使命は果たせなかったかもしれない。
けれど、私はここで、もっと大切なものを手に入れたのだ。
「さあ、食うぞ!冷めたら儂の料理への冒涜だ!」
「分かった、分かったから腕を解け!」
「いただきます!」
三人で囲む、小さな宴。
唐揚げを頬張り、エールで乾杯する。
そこにあるのは、魔王も勇者もない。
ただの、仕事仲間たちの笑顔だった。
「…あ」
ふと、上を見上げると、最上層のテラスから、小さな影がこちらを見下ろしているのが見えた。
大家、真音だ。
彼女は私たちの様子を見て、満足げに一つ頷くと、部屋の中へと戻っていった。
(…大家様)
この場所を作ってくれた、小さな少女。
彼女がいなければ、今こうやって楽しむことはなかった。
「…感謝せねばな」
ガルシスも気づいていたらしい。
彼は星空に向かって、静かにグラスを掲げた。
「この塔と、あの我儘な主に」
「ええ。…乾杯」
「うむ!乾杯じゃ!」
チンッ。
グラスの音が、夜空に澄み渡る。
勇者と魔王の物語は、ここで終わった。
そして、バベル・ガーデンの住人としての、新しい物語が続いていく。
明日はどんな騒動が待っているのか。
どんな無茶振りが飛んでくるのか。
それを考えると、不思議と力が湧いてくるのを感じた。
夜は更けていく。
笑い声と共に、私たちの新しい時代が、確かに動き出していた。
(第八十八話 完)




