第八十七話「第三居住区の完成と、見えてきた未来」
バベル・ガーデン第三居住区画。
かつては崩落した瓦礫の山だったこの場所は、今、静寂と緊張に包まれていた。
「…エリアC、配管接続部。魔力漏洩なし」
コツ、コツ、コツ。
磨き上げられた石畳を叩くヒールの音が、元勇者軍マルコの心臓を直接ノックする。
視線の先には、タブレットを片手に鋭い眼光を走らせる総務部長ルミナの姿。
今日は、数ヶ月に及んだ第三居住区画修復工事の、最終検査日だ。
「マルコさん…。僕、吐きそうです」
隣で直立不動の姿勢をとっている元魔王軍オーク、ゴーグが小声で唸る。
その巨体は小刻みに震え、額からは滝のような脂汗が流れている。
「耐えろゴーグ。…ここを乗り切れば、俺たちの仕事は完了だ」
「わかってます。わかってますけど…あの眼鏡が光るたびに、寿命が縮むんですよぉ!」
ルミナがふと足を止め、壁の継ぎ目を指でなぞった。
その指先には、塵一つついていない。
彼女はタブレットに何かを打ち込み、ゆっくりと振り返った。
「…現場責任者、前へ」
マルコとゴーグが、弾かれたように前に出る。
「はッ!!」
「はいッ!」
ルミナが眼鏡の位置を直し、無表情で告げた。
「内装、外壁、インフラ設備、および魔力循環システム。…全項目において、規定値をクリア」
彼女の口元が、ふわりと緩んだ。
「合格です。…見事な仕事でした」
一瞬の空白。
そして。
「うおおおおおおおおおおおおおおッ!!!」
二人の背後で待機していた建設班の兵士たちが、一斉に歓声を上げた。
帽子が宙を舞い、種族を超えて抱き合う男たち。
「やりました!やりましたよマルコさん!」
「ああ!終わった!ついに終わったんだ!」
ゴーグがマルコを抱きしめ(というより締め上げ)、マルコは酸欠になりながらも涙を流して笑った。
長かった。
泥にまみれ、魔王に怒鳴られ、夜遅くまで図面と格闘した日々。
それが今、最高の形で報われたのだ。
◆◇◆◇◆
その日の午後。
完成したばかりの第三居住区画広場に、全住民が招集された。
壇上には、賢者メルキオラスと、大家・真音の姿がある。
「みんな、静粛に」
メルキオラスの声が、拡声魔法で広場全体に響き渡る。
「たった今、ルミナくんから報告を受けたよ。第三居住区画の修復完了をもって、バベル・ガーデン全体の修復進捗率は…」
賢者は一呼吸置き、高らかに宣言した。
「九五%に到達した!」
ワァァァァァァッ!!
地鳴りのような拍手と歓声。
九五%。それは、ゴールのテープが目の前にあることを意味する。
「残るは、一部の上層エリアの調整と、外壁の最終仕上げのみ。…あと一息だ。ここまでこれたのは、間違いなく君たちの力だ」
メルキオラスが称賛の言葉を贈ると、隣の真音がぴょんと前に出た。
頭の上の熊耳が、誇らしげにピーンと立っている。
「みんな、よくやったわ!…正直、もっとかかると思ってたけど、アンタたち意外とやるじゃない」
上から目線のようでいて、その声は弾んでいる。
「もうちょっとよ!最後までサボらずに働きなさい!…終わったら、すっごいご褒美考えてあげるから!」
真音がニカっと笑い、Vサインを作った。
その無邪気な笑顔が、兵士たちの疲れを一瞬で吹き飛ばす。
「大家様、万歳ッ!」
「最後までやります!死ぬ気で働きます!」
広場は熱狂の渦に包まれた。
誰もが、「終わり」が見えたことへの安堵と達成感に酔いしれていた。
◆◇◆◇◆
夜。
完成祝いのささやかな宴が終わり、兵士たちは三々五々と宿舎へ戻っていく。
マルコとゴーグは、新しく設置された噴水の縁に腰掛け、夜風に当たっていた。
「…九五%、ですか」
ゴーグが、太い指で夜空を指差す。
星々の間を縫うように、世界樹の枝が伸びている。
「あと五%。…一ヶ月もあれば、終わっちゃいますね」
「ああ。本当に、あっという間だった」
マルコは缶ビール(交易市で仕入れた輸入品だ)を呷った。
冷たい液体が喉を通り過ぎる。
「…マルコさん」
「ん?」
「工事が終わったら、僕たちの『借金』も完済です。…契約通りなら、この首輪も外れるんですよね」
ゴーグが自分の首に巻かれた黒い革のチョーカーを触った。
『隷属の首輪』。
かつては屈辱の証であり、逃亡を防ぐための鎖だった。
魔力が込められており、許可なく塔を出ようとすれば締め付けられ、逆らえば激痛が走る。
「…そうだな。俺たちは、自由の身になる」
マルコも自分の首輪に触れた。
最初につけられた時の絶望感は、今でも覚えている。
一生、債務奴隷としてこき使われるのだと思った。
だが。
「…変ですね」
ゴーグが苦笑した。
「昔は、一秒でも早くこれを外したかった。…なのに今は、ついていることすら忘れてました」
「…俺もだ」
マルコは頷いた。
いつの間にか、この首輪はただのアクセサリーになっていた。
恐怖で縛られているのではない。
自分たちの意志で、ここに立っているからだ。
「おい、そこの二人!」
背後から声をかけられた。
見回りの警備兵だ。かつては敵だったゴブリン族の男。
「ここで酒盛りは禁止だぞ!…まあ、今日くらいは見逃してやるがな」
「へへっ、すまねぇな!」
マルコが手を振ると、ゴブリンも笑って去っていった。
その首にも、同じ首輪がついている。
「…先日、ルミナ部長が言ってたよな。『希望者は残れる』って」
マルコが夜空を見上げたまま言った。
「俺もお前も、もう申請書は出した」
「はい!第一号で出しましたよ!」
「なら、首輪が外れるタイミングなんて、もう関係ないんだ」
マルコは、自分の首輪を指で弾いた。
パチン、と乾いた音がした。
「外れても、俺たちはここにいる。…明日も、明後日も」
「…そうですね」
ゴーグが大きく頷いた。
その目には、未来への光が宿っていた。
「ここが、僕たちの家ですから。…もう、どこへも行く必要はないんです」
二人は顔を見合わせ、静かに笑い合った。
契約という名の鎖は、もうすぐ解ける。
だが、彼らをこの場所に繋ぎ止めているのは、もっと強固で、温かい絆だった。
「よし!明日は早起きして、残りの五%を一気に片付ける勢いでやるぞ!」
「はい!僕の怪力を見せてやりますよ!」
二人は立ち上がり、新しい宿舎へと歩き出した。
その足取りは軽く、迷いはない。
修復完了間近のバベル・ガーデン。
それは、彼らにとっての「仕事の終わり」ではなく、「新しい生活の始まり」を告げるファンファーレだった。
窓から漏れる灯りが、彼らの帰る場所を優しく照らしていた。
(第八十七話 完)




