第八十九話「聖女の告白と、新しい道」
バベル・ガーデン、総務部長執務室。
夕暮れ時。茜色の光が差し込む部屋で、ルミナは一枚の手紙を見つめていた。
封蝋には、聖王国教会の紋章。
差出人は、かつて自分を「聖女」として管理していた枢機卿だ。
『ルミナよ。国交が回復した今、貴女の帰還を歓迎する。…再び神の庭にて、その力を振るうがよい』
教会からの、正式な帰還要請。
かつてのルミナなら、震え上がっていただろう。
教会は絶対であり、逆らうことは許されない。
戻れば、またあの息の詰まるような「完璧な聖女」の日々が待っている。
だが、今の彼女の心は、驚くほど静かだった。
「…行きましょう」
ルミナは手紙を懐に入れ、立ち上がった。
報告ではない。決断を伝えに。
彼女が仕えるべき、唯一の主の元へ。
◆◇◆◇◆
最上層『樹洞の聖域』。
真音は、こたつの上でミカンを積み上げる遊びに興じていた。
「五個目…あ、崩れた」
「惜しいね、真音ちゃん。重心がずれていたよ」
向かいでメルキオラスが笑っている。
平和な日常。
ルミナは深呼吸をし、ノックをした。
「失礼します」
「ん?ルミナ?また仕事の追加?」
真音は面倒くさそうに顔を上げたが、ルミナの真剣な表情を見て、すぐに背筋を伸ばした。
「…何かあった?」
「はい。大家様に、ご報告と…お願いがあります」
ルミナは正座し、懐から教会の手紙を取り出した。
「聖王国教会より、私の帰還要請が届きました」
空気が凍る。
真音の目が、スッと細められた。
「…へえ。で、帰るの?」
「いいえ」
ルミナは即答した。
迷いなど、一ミリもない。
「私は断るつもりです。…ですが、それには一つ、問題があります」
彼女は自分の胸に手を当てた。
「私はまだ、教会の『聖女』としての籍を持ったままです。このまま断れば、バベル・ガーデンと教会の間に政治的な摩擦を生む可能性があります」
平和条約は結ばれたが、教会勢力は一枚岩ではない。
「聖女を奪われた」という口実は、強硬派に付け入る隙を与える。
「だから…私を、『解雇』してください」
その言葉に、真音が目を丸くした。
「は?」
「形だけで構いません。一度私をバベル・ガーデンから追放したことにして、教会との縁を切らせてください。その後、改めて…一人の『ルミナ』として、再雇用していただきたいのです」
それは、ルミナなりのケジメだった。
「聖女」という肩書きを捨て、何者でもない自分として、この場所を選び直す儀式。
「…バカみたい」
真音はため息をつき、ミカンを放り投げた。
「そんな回りくどいこと、する必要ある?」
「え…?」
「アンタは私の部下でしょ?誰が文句言おうと、私が『渡さない』って言えばそれまでじゃない」
真音は立ち上がり、ルミナの前に立った。
その小さな体から、王者の威圧感が放たれる。
「教会が何よ。神様が何よ。…私のルミナに手を出そうなんて、一万年早いわ」
その傲慢で、理不尽なまでの独占欲。
ルミナは胸が熱くなるのを感じた。
「でも、大家様…私は、過去を清算したいのです」
ルミナは顔を上げ、初めて真音に「弱音」ではなく「意志」を伝えた。
「私は今まで、誰かに必要とされることでしか、自分の価値を証明できませんでした。孤児院でも、教会でも、そして…ここに来てからも」
彼女は拳を握りしめる。
「『役に立つからここにいていい』。そう思っていました。でも、違うんです」
あの夜、真音に救われたあの日から、ずっと考えていたこと。
「私は、役に立ちたいからここにいるんじゃない。…私が、ここにいたいから、いるんです」
ルミナの声が、僅かに震える。
「ヴォルグの料理が食べたいから。ガルシスの風呂に入りたいから。…そして何より、真音様のそばで、貴女の我儘に振り回されていたいから!」
それは、聖女としての使命感でも、総務部長としての責任感でもない。
ただの、一人の人間の「エゴ」だ。
「だから…聖女ルミナは、今日で終わらせます。これからは、ただのルミナとして…貴女の家族になりたいのです」
言い切った。
全てを吐き出し、ルミナは頭を下げた。
長い沈黙。
やがて、頭上からクスクスという笑い声が降ってきた。
「…あはは!傑作ね」
真音は腹を抱えて笑っていた。
「私の我儘に付き合いたいなんて言う物好き、世界中でアンタくらいよ」
「…事実ですから」
「いいわ。認めてあげる」
真音は手紙をひったくり、掌から出した黒い炎で燃やし尽くした。
灰が舞い散る。
それは、ルミナを縛っていた過去の鎖が、完全に断ち切られた瞬間だった。
「聖女ルミナは死んだ。…今日からアンタは、バベル・ガーデン終身名誉総務部長兼、私の専属お世話係よ。散々こき使ってあげるから覚悟しなさい」
「…はいッ!!」
ルミナは涙を流しながら、満面の笑みで答えた。
それは、彼女の人生で最も理不尽で、最も幸福な「契約」だった。
◆◇◆◇◆
その夜。
ルミナは自分の部屋で、鏡を見ていた。
そこに映るのは、かつての悲壮感漂う聖女ではない。
少し目の周りが赤いが、晴れやかな顔をした一人の女性だ。
「…さて」
彼女は眼鏡をかけ直し、気合を入れた。
「再雇用されたからには、成果を出さねばなりませんね」
デスクには、山積みの書類…デジタル化しても残るものは残るのだと痛感する。
教会への絶縁状の作成、新規プロジェクトの立案、そして真音のおやつ予算の見直し。
仕事は山ほどある。
だが、不思議と重荷には感じなかった。
コンコン。
ドアがノックされる。
「ルミナ部長!ヴォルグ料理長が『お祝いの夜食』を作ったそうです!」
「ガルシス様も『特別サウナ』を準備したと!」
部下たちが顔を覗かせる。
その背後には、心配そうに様子を伺うマルコやゴーグたちの姿も見える。
「…ふふっ」
ルミナは吹き出した。
みんな、知っていたのだ。彼女が今日、大きな決断をしたことを。
そして、その帰りを待っていてくれたのだ。
「行きます。…今日は無礼講ですね」
ルミナはペンを置き、部屋を出た。
廊下の先には、明かりが灯り、笑い声が響いている。
そこが、彼女の選んだ場所。
彼女の、新しい道。
聖女の加護はもうないかもしれない。
けれど、ここにはもっと強くて温かい「魔法」が満ちている。
ルミナは胸を張り、愛すべき家族たちの待つ場所へと歩き出した。
(第八十九話 完)




