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第七十七話「外交官の到来と、対等な対話」

 バベル・ガーデン地上、総合受付カウンター。


 磨き上げられたマホガニーのデスクの向こうで、受付責任者フィオーレは手元の魔導タブレットを操作し、流れるような指捌きで連絡を取る。


 数秒後、彼女は顔を上げた。


「承認されました。総務部長ルミナがお待ちです。…あちらのエレベーターへどうぞ」


 案内されたのは、鉄格子に囲まれた重厚な箱――蒸気式エレベーター(客用)だった。


 プシューッ、と白い蒸気が漏れる音。


 ラウルは箱に乗り込み、興味深そうに内装を撫でた。


「…蒸気機関、ですか。噂には聞いていましたが、実用化されているとは」


 ガゴンッ。


 浮遊感が体を包む。


 魔法による浮遊ではない。物理的な動力が、彼を天上へと運んでいく。


「やはり、侮れませんね。ここはただの『塔』ではない。…一つの『国家』だ」


 ラウルは手帳を開き、交渉のシミュレーションを再確認した。


 相手は、元勇者軍と元魔王軍、そして、謎の支配者。


 一歩間違えば戦争の引き金を引きかねない、薄氷の上のダンスだ。


「ですが…踊り甲斐はありそうだ」


 外交官の瞳に、静かな闘志が宿った。



◆◇◆◇◆



 バベル・ガーデン、総務室・特別応接スペース。


 通された部屋は、機能美に溢れていた。


 無駄な装飾を排し、しかし調度品は一級品。


 窓からは雲海が見渡せる。


「お待ちしておりました、ラウル殿」


 出迎えたのは、知的な眼鏡の女性――総務部長ルミナだった。


 そして、ソファの中央には。


「やあ。遠路はるばる、よく来たね」


 黒いクマのぬいぐるみが、ちょこんと座っていた。


 賢者メルキオラスである。


(…ほう。これが噂の『賢者』ですか)


 ラウルは眉一つ動かさず、優雅に礼をした。


 相手がぬいぐるみだろうとドラゴンだろうと、敬意を払うのが外交官の流儀だ。


「お招きいただき感謝します、賢者メルキオラス様、ルミナ様。…本日は、我が聖王国の意志をお伝えしに参りました」


 ラウルはソファに腰を下ろし、封蝋された親書をテーブルに置いた。


「単刀直入に申し上げます。…聖王国は、貴バベル・ガーデンとの『敵対関係の解消』、および『友好的な国交の樹立』を希望します」


 重い一言。


 ルミナが息を呑む気配がした。


 だが、メルキオラスは瞳を細めただけだった。


「友好、ね。…散々、騎士団を送り込んだり、密偵を潜り込ませたりしておいて?」


「耳が痛いお話です」


 ラウルは苦笑し、素直に頭を下げた。


「過去の非礼は、全面的に認め謝罪いたします。…我々は無知でした。ここが、これほど高度な文明と秩序を持った場所であるとは知らず、ただの『魔物の巣窟』と誤認しておりました」


 彼は顔を上げ、真摯な瞳でメルキオラスを見据えた。


「ですが、今は違います。交易市の賑わい、技術の高さ、人々の笑顔…。それを見れば、貴方方が野蛮な侵略者ではないことは明白です」


「…買い被りだよ。僕たちはただ、静かに暮らしたいだけさ」


「ええ。だからこそです」


 ラウルは身を乗り出した。


「争いは、双方にとって不利益です。貴方方は平穏を望み、我々は無駄な消耗を避けたい。…利害は一致しています」


 論理的で、冷静な提案。


 メルキオラスは短い手で顎を撫でた。


「…条件は?」


「相互不可侵条約の締結。および、通商協定の結び直し。…バベル・ガーデンを『自治領』として承認する用意があります」


 それは、事実上の独立国家承認に近い。


 破格の条件だ。


 だが、メルキオラスの口元から笑みが消えることはなかった。


「…一つ、訂正してもらおうか」


 空気が凍りついた。


 ぬいぐるみの体から、歴戦の大賢者だけが放てる、圧倒的な威圧感が立ち上る。


「『承認する』のではない。僕たちは最初から、誰の許可も必要としていない」


 メルキオラスは静かに、しかし断固として告げた。


「友好は大いに歓迎するよ、ラウルくん。…ただし、それは『対等』な関係においてのみだ。上から目線の『承認』なら、お引き取り願おう」


 ラウルは背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。


 このぬいぐるみは、見た目の愛らしさに反して、古強者ベテランだ。


 言葉の綾、認識のズレを決して見逃さない。


「…失礼いたしました。訂正します」


 ラウルは居住まいを正した。


「対等なパートナーとして…握手を求めます」


 緊張が緩和する。


 メルキオラスがふっと笑い、手を差し出そうとした、その時。


「――ねえ」


 不意に、部屋の奥の扉が開いた。


「!?」


 ラウルが振り返る。


 そこには、眠そうな目を擦りながら現れた、エプロンドレスの少女がいた。


 頭の上の丸い熊耳が、寝癖でぺしゃりと潰れている。


「…うるさいんだけど。昼寝の邪魔しないで」


 大家、真音である。


 彼女はラウルの存在など気にも留めず、ドカッとメルキオラスの隣に座り込み、テーブルの上のクッキーを掴んだ。


「あ、真音ちゃん。起きたのかい」


「ん…。で、なに?この優男ヤサオトコ


 真音はクッキーをかじりながら、ジト目でラウルを見上げた。


 ラウルは瞬時に悟った。


 この少女こそが、この塔の「コア」であると。


 賢者メルキオラスですら、彼女の前ではただの保護者に見える。


「…お初にお目にかかります。聖王国のラウルです」


「ふーん。…クッキー、食べる?」


 真音は食べかけのクッキーを差し出した。


 あまりに脈絡のない行動に、ルミナが「大家様っ!」と慌てる。


 だが、ラウルは微笑んで、それを受け取った。


「いただきます。…美味しいですね」


「でしょ?ヴォルグが焼いたの」


 真音はニカっと笑い、熊耳をピコピコと動かした。


「で?なんか難しい話してたみたいだけど」


「ええ。…仲良くしませんか、というお話です」


 ラウルは、子供に言い聞かせるように、しかし決して子供扱いせず、対等な目線で言った。


「喧嘩をするより、一緒にお茶を飲んだ方が楽しいですから」


「…んー」


 真音は首を傾げ、ラウルの顔をじっと覗き込んだ。


 その黒曜石の瞳は、嘘偽りを見抜く鏡のようだ。


 ラウルは視線を逸らさず、穏やかに見つめ返す。


 数秒の沈黙。


 やがて、真音は「まあ、いいんじゃない?」と軽く言った。


「え?」


「アンタ、嘘ついてなさそうだし。…それに、外からお客さんが来るのは嫌いじゃないわ」


 彼女はテーブルの上の親書を指先で弾いた。


「難しいことはルミナたちに任せるけど。…私の家のルールを守るなら、歓迎してあげる」


「ルール、ですか?」


「そう。…『ご飯は残さない』『廊下は走らない』『大家わたしの安眠を妨害しない』」


 真音は指を三本立てて、威張ってみせた。


「守れる?」


「…ふっ、ふふっ」


 ラウルは思わず吹き出した。


 国家間の条約交渉の場で、提示された条件がこれだ。


 あまりにも無邪気で、そしてあまりにも平和的だ。


「ええ。…肝に銘じます。特に三つ目は、命に関わりそうですから」


「分かってるじゃない」


 真音は満足げに頷き、メルキオラスに寄りかかった。


「くまちゃん、あとはよろしくね。…私、二度寝する」


「はいはい。おやすみ、真音ちゃん」


 真音はラウルに小さく手を振り、再び奥の部屋へと消えていった。


 嵐のような、しかし温かい風が通り過ぎた後のような余韻が残る。


「…驚きました」


 ラウルは、心からの感嘆を漏らした。


「あの方が、こちらの主とは。…純粋で、そして底知れない」


「あの子が、僕たちの全てだよ」


 メルキオラスは、真音が残していったクッキーの粉を払いながら言った。


「彼女が笑っていられる世界なら、僕たちは全力で協力する。…そういうことだ」


「理解しました。…聖王国としても、彼女の笑顔を曇らせるような真似はいたしません」


 ラウルは立ち上がり、右手を差し出した。


 メルキオラスが、短い手(肉球)でそれを握り返す。


「交渉成立だね」


「ええ。…これより、良き隣人として」


 固い握手。


 かつて敵対していた二つの勢力が、今、正式に手を結んだ瞬間だった。


 帰り道。


 バベル・ガーデンを出たラウルは、馬車の窓から巨塔を見上げた。


「…報告書を書くのが楽しみですね」


 教皇は腰を抜かすかもしれない。


 だが、この場所には可能性がある。


 世界を変えるかもしれない、新しく、優しい風が吹いている。


「また来ましょう。…今度は、手土産のクッキーを持って」


 ラウルは手帳を開き、新しいページに『バベル・ガーデン滞在記』と書き込んだ。


 その表情は、ここ数年で一番晴れやかだった。


(第七十七話 完)

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