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第七十六話「聖王国の動揺と、新たな対応」

 聖王都の中枢にある大聖堂の最奥、教皇執務室は、張り詰めた空気に支配されていた。


 バァンッ!!


 豪奢な執務机が、拳で叩きつけられる。


 聖教皇グレゴリウス四世は、顔を怒りで歪ませていた。


「…連絡がないとは、どういうことだ」


 彼の前には、諜報部の長が蒼白な顔で跪いている。


「は、はっ!『灰鷹』セリーナからの定期連絡が途絶えて、早一週間…。魔法による追跡も不能。完全に消息を絶ちました」


「馬鹿な。彼女は諜報部きっての傑物だぞ。あの『廃墟』で、野良犬に食われたとでも言うのか?」


 教皇は椅子に深々と沈み込み、指を組んだ。


 騎士団長ガウェインはパンツ一丁で帰還した。


 密偵エリオットは「廃墟だ」と報告した。


 そして今、再調査に向かったセリーナが消えた。


(…何かが、おかしい)


 エリオットの報告は偽りだったのか?


 あるいは、あの塔には我々の想像を絶する「何か」が潜んでいるのか。


 正体不明の闇が、西の森で口を開けている。


「…猊下」


 傍らに控えていた側近の枢機卿が、静かに口を開いた。


「これ以上の密偵派遣は、人的資源の浪費かと。…相手が何者であれ、影からの接触をことごとく無力化する実力があることは明白です」


「ならばどうしろと言うのだ。軍を出すか?相手の戦力も分からぬままに?」


「いいえ。…正面から、堂々と叩くのです」


 枢機卿は、一枚の書状を差し出した。


「『外交』という名の扉を」



◆◇◆◇◆



 王都の外れにある、閑静な屋敷。


 陽だまりの中で紅茶の香りを頼んでいた男の元に、召喚状が届いたのはその翌日のことだった。


「…やれやれ。私の平穏な午後は、これにて終了ですか」


 男の名はラウル。


 聖王国対外折衝局・上席外交官。


 黒髪に黒目、少し眠たげな瞳をした、一見すると学者のような風貌の青年だ。


 彼はため息交じりにカップを置き、使いの兵士を見た。


「行き先は?」


「西の未開拓領域…通称『バベル・ガーデン』であります」


「…ああ。例の、騎士団長が涼みに行って装備を剥がされたという」


 ラウルは苦笑した。


 軍部の大失態は、宮廷内では公然の秘密であり、極上の笑い話となっていた。


「任務は?」


「当該拠点の支配者との接触、及び国交樹立の可能性打診。…事実上の『降伏勧告』か『同盟締結』か、判断はお任せすると教皇猊下より」


「なるほど。…戦う前に話せ、ということですね。嫌いではありませんよ、そういうのは」


 ラウルは立ち上がり、コートを羽織った。


 腰には剣も帯びず、ただ一冊の手帳とペンだけを持って。


「行きましょう。…どんな王様がお出ましになるか、楽しみですね」



◆◇◆◇◆



 数日後。


 ラウルを乗せた馬車は、西へと続く街道を進んでいた。


 御者と護衛の兵士が二名。


 外交使節団としてはあまりに小規模だが、これはラウルの希望だった。


 「大げさな行列は相手を警戒させるだけだ」と。


「…ふむ」


 馬車の窓から外を眺めていたラウルが、目を細めた。


 前方から、一台の荷馬車がやってくる。


 荷台には空の木箱が山積みになっており、御者台には赤髪の小柄な少女が座っていた。


「止めてください」


「はっ?」


「少し、道を尋ねたいのです」


 ラウルは馬車を降り、すれ違いざまの荷馬車に声をかけた。


「失礼。そこのお嬢さん」


「…はい?」


 手綱を引いたのは、行商人リッカだった。


 彼女はラウルの身なりを一瞥し、瞬時に「ただの旅人ではない」と見抜いたようだ。警戒の色が走る。


「西の森からのお帰りですか?」


「ええ、まあ。…商売の帰りですけど」


「商売、ですか。あのような人里離れた場所で?」


 ラウルは穏やかな笑みを崩さない。


「私は聖王国の外交官、ラウルと申します。…あの塔のあるじに会いに行く途中なのですが」


「外交官…」


 リッカの目が少し見開かれる。


 ついに国が、正規の手続きで動き出したか、と。


「一つ、教えていただけますか。…あそこは、どのような場所です?」


 ラウルの問いに、リッカは少し考え、そしてニカっと笑った。


「一言では言えませんね。…でも、一つだけ忠告しておきます」


「ほう?」


「『常識』は、森の入り口に置いていった方がいいですよ。あそこにあるのは、貴方が見たこともない『新しい世界』ですから」


 リッカは手綱を振るった。


 馬車が動き出す。


「ご忠告、感謝します。…良い商いを」


「貴方も。…食べ過ぎにはご注意を!」


 リッカの馬車が去っていく。


 ラウルはその背中を見送り、ふっと口元を緩めた。


「食べ過ぎ、ですか。…食事が美味いというのは、良い情報のようだ」


 あの商人の顔。


 恐怖や強制労働に怯える者の顔ではなかった。


 むしろ、良い取引を終えた充実感に満ちていた。


(…報告書にあった『廃墟』という記述は、やはり間違いでしたね)


 ラウルは確信し、再び馬車に乗り込んだ。



◆◇◆◇◆



 さらに数時間後。


 鬱蒼とした森を抜けた先に、それは姿を現した。


「…これは」


 ラウルは言葉を失った。


 天を衝く世界樹。


 それに絡みつくように構築された、巨大な石造りの回廊。


 だが、彼の目を奪ったのは、その規模ではない。


 活気だ。


 広場には、色とりどりのテントが並び、多くの冒険者たちが行き交っている。


 湯気が立ち上り、笑い声が響き、槌音が歌うように聞こえる。


 廃墟?


 魔窟?


 とんでもない。


 ここは、新興の「都市」だ。


「…教皇猊下。貴方はとんでもない虎の尾を踏もうとしていたのかもしれませんよ」


 ラウルは苦笑交じりに呟いた。


 この規模の経済圏と、それを統率する組織力。


 もし武力衝突していれば、聖王国とて無傷では済まなかっただろう。


「止まれ!何者だ!」


 入り口にいた警備員――ゴブリンのギズモが、鋭い声で制止する。


 ラウルは馬車を降り、両手を広げて歩み寄った。


「怪しい者ではありません。…聖王国より、こちらの代表者様へ親書を携えて参りました」


 彼は懐から、封蝋の施された書状を取り出した。


 その態度はあくまで紳士的で、敵意のかけらもない。


「…親書?でありますか」


 ギズモが怪訝そうな顔をする。


 そこへ、騒ぎを聞きつけた受付嬢フィオーレが駆け寄ってきた。


「お待ちください、ギズモ隊長。…その紋章、間違いありませんわ。聖王国の正式な外交印です」


「おや、お詳しいですね」


「元、貴族ですので」


 フィオーレは優雅に、しかし毅然とラウルを見据えた。


「ようこそ、バベル・ガーデンへ。…アポイントメントはございません…よね?主に取り次ぎますか?」


「ええ。是非とも。…平和的な対話を望みます」


 ラウルは微笑んだ。


 その瞳の奥で、冷徹な計算機が高速で回転を始める。


(さて…。お手並み拝見といきましょうか。この奇妙で、魅力的な楽園の支配者殿)


 剣を交えない戦い。


 言葉と知略による「外交戦」の幕が、今、切って落とされた。


(第七十六話 完)

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