第七十五話「密偵の決断と、告白の時」
バベル・ガーデン、『ホテル・バベル』の最上階。
月明かりが差し込む一室で、聖王国諜報部員セリーナは、一枚の羊皮紙と対峙していた。
『定期報告書No.08』。
そこに記すべき言葉は、彼女の頭の中にいくつも浮かんでいる。
「脅威なし」。
「高度な技術と経済力を持つ独立国家」。
「魔王軍の一部残党がいるようだが、敵意は確認されず」。
だが、ペン先は震え、インクの染みを広げるだけだった。
「…書けない」
セリーナはペンを置いた。
ありのままを書けば、聖王国は「危険因子」として軍を動かすだろう。
嘘を書けば、それは祖国への裏切りとなる。
彼女の脳裏に、この数ヶ月の光景が走馬灯のように駆け巡る。
市場で笑う人々。
湯上がりで肌を輝かせる女性冒険者たち。
そして、迷子の子供を助けた時に向けられた、母親の涙と感謝の言葉。
(あそこにあるのは…「悪」じゃない)
セリーナは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
眼下には、夜の帳が下りたバベル・ガーデンの灯りが、星の海のように広がっている。
誰かが奏でるリュートの音色と、微かな笑い声が風に乗って聞こえてくる。
「…決めた」
彼女は羊皮紙を掴み、掌から出した小さな炎で燃やした。
灰が舞い、闇に溶けていく。
それは、彼女が「聖王国の影」としての自分を葬った瞬間だった。
「行くわ。…審判の場へ」
セリーナは部屋を出た。
足取りは重いが、迷いはなかった。
◆◇◆◇◆
総務室。
深夜にも関わらず、扉の隙間からは光が漏れていた。
セリーナは深呼吸をし、意を決してノックをした。
「…入れ」
中から、穏やかな、しかし全てを見通すような声が響く。
セリーナはドアを開け、部屋の中央へと進み出た。
執務机の奥には、総務部長ルミナ。
そしてソファには、黒いクマのぬいぐるみ――賢者メルキオラスが座っていた。
彼らは驚く様子もなく、静かにセリーナを見つめ返した。
「夜分に失礼します。…冒険者セリーナです」
「いらっしゃい。…用件は?」
メルキオラスがカップを置く。
セリーナはその場に片膝をつき、深く頭を垂れた。
冒険者としての偽装を解き、一人の「罪人」として。
「私は…冒険者ではありません」
声が震えないように、腹に力を入れる。
「本名はセリーナ・ヴァーグナー。聖王国諜報部第二課所属、コードネーム『灰鷹』。…貴方方を監視し、破壊の糸口を探るために潜入した、密偵です」
言った。
全てを吐き出した。
処刑されるかもしれない。
拘束され、拷問を受けるかもしれない。
それでも構わなかった。
このまま偽りの笑顔で彼らと接し続けることの方が、彼女には耐え難かったからだ。
沈黙が部屋を支配する。
数秒、数分にも感じられる静寂の後。
「…うん。知ってたよ」
メルキオラスの声は、あまりにも軽かった。
「…え?」
セリーナは顔を上げた。
メルキオラスは、瞳を細めて微笑んでいる。
隣のルミナも、眼鏡の位置を直しながら淡々と言った。
「貴女が入国した初日…いえ、フィオーレの受付を通った瞬間から、監視対象に入っていました」
「なッ…!?」
セリーナは絶句した。
完璧な変装、完璧な演技だったはずだ。
それを見抜かれていた?最初から?
「な、ならばなぜ…!なぜ私を泳がせたのですか!情報を持ち帰らせれば、国軍を呼び寄せるかもしれないのに!」
「君が、何を見て、何を感じるか。…それを知りたかったからだよ」
メルキオラスは短い手足を組み直した。
「君以前に来た、彼の時は、情報を操作して帰した。でも、君は違った。君は真面目で、正義感が強く…そして迷っていた」
賢者は、まるで孫を諭すように語りかける。
「僕たちは、君の『目』を信じたんだ。このバベル・ガーデンという場所が、君の正義にどう映るのか。…もし君が『ここは悪だ』と判断して攻撃を仕掛けてくるなら、その時は…」
メルキオラスの背後から、一瞬だけ、背筋が凍るようなプレッシャーが立ち上った。
だが、それはすぐに霧散する。
「…でも、君はここに来た。武器ではなく、言葉を持って」
セリーナの目から、涙が溢れた。
見透かされていた。
自分の葛藤も、苦悩も、全て。
「…悪では、ありませんでした」
セリーナは絞り出すように言った。
「ここは…私が知るどの場所よりも、温かくて、眩しい場所でした。…それを壊すことなど、私にはできません」
彼女は床に拳をついた。
「私の任務は失敗です。…殺してください。私は、国を裏切った売国奴です」
祖国への忠誠と、自身の良心。
その板挟みで引き裂かれた心は、もう限界だった。
死による救済を願うほどに。
だが、下された判決は、彼女の予想を裏切るものだった。
「…なら、ここにいれば?」
不意に、頭上から声が降ってきた。
「!?」
セリーナが振り返ると、いつの間にか部屋の隅にある大きなクッションの上に、エプロンドレスの少女――大家、真音が寝転がっていた。
頭の上の熊耳が、退屈そうに揺れている。
「お、大家様…!?」
「話長い。眠くなる」
真音はあくびをし、スライム・ドロップを放り投げ、口でキャッチした。
「国に戻れないんでしょ?殺してほしいとか物騒なこと言ってないで、ウチで働きなさいよ」
「え…?」
「アンタ、目利きの腕はいいみたいだし。…フィオーレの下で、不審者チェックの仕事でもすれば?元プロなら適任でしょ」
あまりにも軽い提案。
命のやり取りをしていたはずの場面が、まるで就職面接のような空気に変わる。
「で、でも…私は敵国の人間で…!」
「だから?」
真音は起き上がり、黒曜石の瞳でセリーナを射抜いた。
「アレクセイは元勇者。ヴォルグは元魔王軍。ルミナは元聖女。…ここには『元・敵同士』しかいないのよ。今さら一人増えたところで、どうってことないわ」
真音はニカっと笑った。
「過去なんてどうでもいい。…大事なのは、今、アンタがここを『好き』だってことだけでしょ?」
その言葉が、セリーナの胸に突き刺さった。
好き。
そう、自分はこの場所が好きだったのだ。
理屈や任務を超えて、ただ純粋に。
「…う、うぅ…ッ!」
セリーナは顔を覆い、声を上げて泣いた。
張り詰めていた糸が切れ、感情が奔流となって溢れ出す。
「ありがとう…ございます…!ありがとう、ございます…!」
メルキオラスが優しく微笑み、ルミナがハンカチを差し出す。
そして真音は、「うるさいわねぇ」と言いながらも、その表情は満足げだった。
「…ルミナ。こいつの首輪、用意しといて」
「いえ、大家様。彼女は自由意志で残るのですから、首輪は必要ありませんよ」
「ふーん。…ま、逃げようとしたら私が捕まえるからいいけど」
真音はケラケラと笑い、セリーナの頭に食べかけのエナジーバーを乗せた。
「歓迎会代わりよ。食べなさい」
「…はいっ!いただきます!」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で、セリーナはエナジーバーをかじった。
しょっぱくて、甘くて、そして何より温かい味がした。
こうして、聖王国の『灰鷹』は死んだ。
そして翌朝、バベル・ガーデンの受付には、フィオーレの隣でテキパキと不審者を捌く、新たな警備主任セリーナの姿があった。
「お客様、その大きさの刃物の持ち込みは制限されています。…あら?その鞄の底、二重底ですね?何を隠していますの?」
「ひぃッ!?な、なんでバレた!?」
「プロですから」
彼女の目は鋭いが、その口元には、かつてないほど晴れやかな笑みが浮かんでいた。
もう嘘をつく必要はない。
守るべき「家」のために、全力を尽くせるのだから。
(第七十五話 完)




