第七十二話「蒼天竜の休日と、空の散歩」
世界樹の梢を揺らす風が、今日はやけに心地よい。
最上層『樹洞の聖域』。
蒼天竜ラズリは、窓の外に広がる無限の青を見つめ、小さく鼻を鳴らした。
「…良い天気だ」
風の匂い、気流の温度、湿度のバランス。
全てが完璧な「飛行日和」だった。
ラズリは、こたつで丸くなってスライム・ドロップを貪っている主――真音に視線を向けた。
「我が君」
「んー?」
真音は口にグミを入れたまま、けだるげに顔を上げる。
「今日は…その、少し遠出をしませんか?」
「遠出?」
「はい。空へ。…二人きりで」
ラズリは少し照れくさそうに前足(猫サイズ)をもじもじさせた。
最近は塔の防衛や、大家の護衛任務で忙しく、純粋に空を楽しむ時間がなかった。
何より、主と共に風になりたいという衝動が、抑えきれなくなっていたのだ。
真音はパチクリと瞬きし、そして満面の笑みを浮かべた。
「いいね!行こう行こう!最近運動不足だったし!」
彼女はパッとこたつから飛び出し、パーカーを羽織った。
「くまちゃん、留守番よろしく!」
「行ってらっしゃい。お土産話、期待してるよ」
メルキオラスに見送られ、二人は聖域のテラスへと出た。
◆◇◆◇◆
一歩、外へ踏み出すと、強烈な高高度の風が二人を迎えた。
「では、参ります」
ラズリが跳躍する。
光と共に、その姿が劇的に変貌を遂げる。
愛らしい子猫サイズから、全長五十メートルを超える、神話級の蒼き竜へ。
『我が背へ』
重厚な思念が響く。
真音は慣れた様子で、ラズリの首元にある一番安定した鱗の上に飛び乗った。
「発進!」
バサァァァッ!!
ラズリが巨大な翼を広げ、大気を叩いた。
爆発的な加速。
重力加速度が全身にかかるが、真音は楽しそうに笑っている。
「うわあああ!速い!」
世界樹の梢が一瞬で眼下へと遠ざかる。
雲海を突き抜け、さらに高く、高く。
そこは、濃紺の空と、眩しすぎる太陽だけが存在する世界。
「すっごーい!世界がちっちゃく見える!」
真音が身を乗り出して叫ぶ。
ラズリもまた、歓喜の咆哮を上げた。
『グオォォォォォッ!!』
風を切る感覚。
翼にかかる抵抗。
その全てが、太古の記憶を呼び覚ます。
かつては同胞たちと競い合った空。
今はもう誰もいない。
だが、背中には、世界で一番大切な存在がいる。
(…悪くない。いや、最高だ)
ラズリは、さらに速度を上げた。
音速を超え、衝撃波を置き去りにする。
真音の結界があるからこそ可能な、極限の飛行。
「もっと!もっと回って!」
『御意!』
きりもみ回転、急降下、そして急上昇。
空の王者だけが許された、三次元の舞踏。
真音の笑い声が、風に乗ってどこまでも響いていく。
◆◇◆◇◆
ひとしきり飛び回った後、ラズリは高度を下げ、雲の上を滑るように飛行していた。
「…気持ちいいね、ラズリ」
真音が、ラズリの首に頬を寄せる。
鱗越しに伝わる体温が、心地よい。
『はい。…我が君とこうしている時が、至福であります』
「ふふっ。アンタ、昔はもっと怖そうな顔して飛んでたのにね」
『…面目ない。あの頃は、強さこそが全てだと思っておりましたゆえ』
ラズリは苦笑(のような波動)を漏らした。
孤独な最強種。誰とも群れず、ただ空を支配することだけがアイデンティティだった。
それが今や、一人の少女の「足」であることを誇りに思っている。
その時。
前方から、複数の影が接近してきた。
『…む?』
ギャオオオオオン!!
野生のワイバーンの群れだ。
二十体ほどいるだろうか。彼らはラズリの巨体を見ても怯まず、縄張りを主張するように威嚇音を上げている。
「あーあ。お邪魔虫ね」
真音がつまらなそうに呟く。
ラズリの瞳が、スッと細められた。
(…我らの時間を邪魔するか。下等生物ごときが)
ラズリは、ブレスを吐くまでもないと判断した。
ただ、僅かに魔力を解放し、「格」の違いを見せつける。
『――失せろ』
ドォォン!!
物理的な衝撃波を伴う「竜威」が炸裂した。
空気が震え、ワイバーンたちの脳髄を直接揺さぶる。
キュ…!?
ギャァァァァッ!!
ワイバーンたちは泡を吹いて失神し、あるいはパニックを起こして蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
一瞬で、空は再び静寂を取り戻した。
「…おお」
真音が目を丸くし、そしてパチパチと拍手をした。
「やるじゃない。…ちょっとカッコよかったわよ」
『…恐縮です』
ラズリは照れ隠しに、小さく翼を羽ばたかせた。
最強の竜であることの証明。
それを主に見せられたことが、何よりも嬉しかった。
◆◇◆◇◆
夕暮れ時。
世界樹が黄金色に染まる頃、二人は聖域へと戻ってきた。
「ただいまー」
「お帰り。楽しかったかい?」
メルキオラスが温かい紅茶を用意して待っていた。
ラズリは猫の姿に戻り、真音の膝の上で丸くなった。
「うん!すっごく楽しかった!また行こうね、ラズリ!」
「…はい、我が君。いつでも」
ラズリは目を閉じた。
心地よい疲労感と、満たされた心。
かつての空は孤独だった。
だが今の空には、帰るべき場所と、共に笑う家族がいる。
(…これ以上の幸せなど、竜の宝物庫にもありますまい)
最強の蒼天竜は、主人の温もりを感じながら、幸せな夢へと落ちていった。
それは、どんな宝石よりも輝かしい、穏やかな休日の記憶だった。
(第七十二話 完)




