第七十一話「宿泊施設の完成と、開業の日」
バベル・ガーデン第二五〇層付近。
かつては空き部屋と瓦礫が散乱していたこの区画に、今、ひとつの奇跡が顕現していた。
「…すごい」
元勇者軍・後方支援部隊所属、現在は施設管理班のマーサは、その威容を見上げて呆然と呟いた。
目の前にそびえるのは、重厚な石造りの建物。
だが、ただの石積みではない。
世界樹の太い枝を天然の梁として利用し、磨き上げられた白大理石が樹皮の曲線に沿って滑らかに組み上げられている。
窓にはステンドグラスがはめ込まれ、木漏れ日を受けて宝石のように輝いている。
剛健にして優美。
自然と人工の、完璧な調和。
「どうじゃ!これぞ儂の最高傑作、『ホテル・バベル』じゃ!」
建物の前で仁王立ちしているのは、ドワーフの建築家グンターだ。
彼は煤と木屑にまみれた顔で、ニカッと白い歯を見せた。
「グンターさん…本当に、三ヶ月で建ててしまうなんて」
「ふん。あの眼鏡の女に『一日でも遅れたら違約金』と脅されたからな。…ま、久しぶりに本気を出させてもらったわい」
グンターは豪快に笑い、マーサの背中をバンと叩いた。
「さあ、中を見てみろ。今日からここがお前の城じゃぞ、管理人殿?」
「は、はいッ!」
マーサは震える手で、重厚なオーク材の扉に手をかけた。
◆◇◆◇◆
ギィィィ…。
扉が開くと、そこは別世界だった。
吹き抜けのエントランスロビー。
高い天井からは魔石のシャンデリアが下がり、床には真紅の絨毯が敷き詰められている。
そして何より目を引くのは、壁面だ。
剥き出しの世界樹の樹皮がそのまま内壁として活かされ、そこを流れる魔力の光が、間接照明のように室内を優しく照らしている。
「素晴らしい出来です」
コツ、コツ、コツ。
ヒールの音と共に現れたのは、総務部長ルミナだった。
彼女はバインダー片手に、厳しい目で細部をチェックしていく。
「内装の仕上げ、空調魔導具の配置、リネンの品質…。全て合格点です。予算内かつ期限内にここまでやるとは、さすが巨匠ですね」
「ふん。儂を誰だと思っておる」
グンターが鼻を鳴らす。
ルミナはふっと表情を緩め、マーサに向き直った。
「マーサさん。準備はいいですか?」
「は、はい!マニュアルはすべて暗記しました!」
マーサは背筋を伸ばした。
彼女の実家は、田舎の小さな宿屋だった。
戦争で家を焼かれ、生きるために軍に入ったが、本来の彼女は剣よりもモップを持つ方が性に合っている。
この抜擢は、彼女にとって「人生を取り戻す」チャンスだった。
「貴女の献身さと、細やかな気配りを見込んでの任命です。…期待していますよ」
「はいッ!この命に代えても、お客様に最高の安らぎを!」
「命まではいりません。必要なのは笑顔と、ベッドメイキングの速さです」
ルミナは苦笑し、懐中時計を確認した。
「さあ、時間です。…主がお待ちです」
◆◇◆◇◆
ホテルの正面玄関前。
そこには、噂を聞きつけた冒険者たちや、非番の兵士たちが黒山の人だかりを作っていた。
「おい見ろよ、すげぇ建物だな!」
「今日から泊まれるんだろ?もう野宿しなくていいのか!」
ざわめきの中、ファンファーレ(魔族の金管部隊)が鳴り響く。
玄関前に張られた紅白のテープの前に、エプロンドレスの少女――大家、真音が立った。
頭の上の熊耳が、無数の視線に晒されて少し緊張気味にピクピクしている。
「…えー。本日はお日柄もよく」
ルミナに渡されたカンペを棒読みする真音。
「この『ホテル・バベル』が、迷える旅人たちの良き止まり木となることを…あーもう!面倒くさい!」
ビリッ!
真音はカンペを破り捨てた。
会場が静まり返る。
「要するに!」
真音は両手を広げ、ニカっと笑った。
「私の家は最高に居心地がいいから、ゆっくりしていきなさいってこと!ただし、部屋を汚したら掃除代三倍請求するからね!」
ドッ、と笑いが起きる。
堅苦しい挨拶よりも、この大家らしい言葉のほうが、人々を安心させたようだ。
「それじゃ、オープン!」
真音は金色のハサミを入れる――ことなく、素手でテープを引きちぎった。
ブチィッ!!
ワアアアアアアアアッ!!
歓声と拍手が巻き起こる。
「さあ、マーサ。あとは任せたわよ」
「は、はいッ!お任せください!」
マーサは一歩前へ出た。
震える膝を、エプロンの下で必死に抑える。
そして、かつて実家の宿屋で毎日言っていた言葉を、腹の底から絞り出した。
「いらっしゃいませ!旅の疲れを癒やす『ホテル・バベル』へ、ようこそ!」
彼女の第二の人生が、今、幕を開けた。
◆◇◆◇◆
開業直後から、フロントは戦場と化した。
「宿泊希望だ!一番いい部屋を頼む!」
「お風呂はどこ!?美肌の湯があるって聞いたんだけど!」
「食事は部屋出しできるのか?」
殺到する冒険者たち。
だが、マーサは不思議と落ち着いていた。
「はい、デラックスルームですね。三階の角部屋をご用意いたします」
「大浴場は地下一階です。タオルはこちらをお使いください」
「お食事は一階のレストラン、もしくはルームサービスも承っております」
的確な判断。無駄のない動き。そして何より、柔らかい笑顔。
彼女の中で眠っていた「宿屋の娘」としての本能が、完全に覚醒していた。
「ふぅ…。すごいですね、あの子」
手伝いに来ていた受付嬢のフィオーレが、感心したように呟く。
「ええ。やはり『適材適所』ね」
ルミナも満足げに頷く。
チェックインを済ませた冒険者たちは、それぞれの部屋へと向かう。
そして、扉を開けた瞬間、感嘆の声を上げた。
「うおおっ!なんだこのベッド!フカフカだぞ!」
「窓から雲海が見える!絶景じゃないか!」
「蛇口を捻ったらお湯が出た!魔導式か!?」
グンターの設計した部屋は、冒険者たちの予想を遥かに超えていた。
石造りの壁は防音性が高く、隣の部屋のいびきも聞こえない。
空調は完備され、常に適温が保たれている。
それは、過酷なダンジョン探索に明け暮れる彼らにとって、文字通りの「天国」だった。
「極めつけは、これだろ!」
大浴場。
広々とした湯船には、ガルシスが調整した極上の源泉が掛け流されている。
「あぁ〜…生き返る…」
「こんな贅沢、王様だってしてねぇぞ…」
男たちが情けない声を上げて湯に溶けていく。
その顔は、魔物と戦う戦士の顔ではなく、ただの骨抜きになった男の顔だった。
◆◇◆◇◆
夜。
ロビーのラウンジには、風呂上がりの冒険者たちが集まり、ヴォルグ特製の夜食と酒を楽しんでいた。
「くぅ〜っ!湯上がりのエールは最高だぜ!」
「この『枝豆』ってやつ、止まらないな!」
喧騒の中、マーサはカウンターの中でグラスを磨いていた。
忙しい。
足は棒のようだ。
けれど、心は満たされていた。
「…いい宿になったわね」
不意に、カウンターの席に少女が座った。
真音だ。
パジャマ姿で、眠れないのかホットミルクを注文しに来たらしい。
「あ、大家様!いらしていたのですか!」
「ん。ちょっと様子見」
真音は出されたミルクを啜り、賑わうロビーを眺めた。
「みんな、幸せそうな顔してる」
「はい。…お客様の笑顔が、私にとっても一番の報酬です」
マーサが答えると、真音はジト目で彼女を見た。
「綺麗事ね。…でも、アンタが言うと本当っぽく聞こえるから不思議」
「ふふっ。本当のことですから」
マーサは微笑んだ。
剣を握っていた手は、今はシェイカーと鍵を握っている。
誰かを傷つけるためではなく、誰かを休ませるための手。
それが、誇らしかった。
「…これ」
真音は懐から、小さな小瓶を取り出してカウンターに置いた。
「え?」
「特製のハーブオイル。足のむくみに効くって、ルミナが言ってた」
真音はプイと顔を背けた。
「アンタが倒れたら、代わりがいないからね。…自分のメンテナンスも仕事のうちよ」
「大家様…」
マーサは小瓶を胸に抱きしめ、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。…大切に使わせていただきます」
「ふん。…じゃあ、おやすみ」
真音はカップを置き、ペタペタと裸足で去っていった。後ろにはラズリが控えるようについていく。
その背中に、ロビーにいた冒険者たちが一斉に道を譲り、敬礼をする。
真音はそれを「うざい」と手で払いながら、エレベーターへと消えていった。
◆◇◆◇◆
ホテルの外。
夜風に吹かれながら、グンターが一人、建物を眺めていた。
窓から漏れる明かり一つ一つに、人々の安らぎがある。
「…悪くない」
彼は満足げに髭を撫でた。
城塞も砦も数多く作ってきた。
だが、これほど「生きた」建物を作ったのは初めてかもしれない。
「儂の最高傑作じゃ。…大事に使えよ、若造ども」
グンターはニヤリと笑い、道具袋を担ぎ直した。
仕事は終わった。だが、バベル・ガーデンの拡張はまだ始まったばかりだ。
次はどんな無茶振りが来るのか。
老建築家は、それが楽しみで仕方がないようだった。
こうして、『ホテル・バベル』は華々しいデビューを飾った。
その快適さとホスピタリティは瞬く間に大陸中に広まり、「一生に一度は泊まりたい宿」として、予約数ヶ月待ちの伝説を作ることになるのだが――それはまた、別の話である。




