行動・第2段階3
ハナハナに戻ったミチルは真っ先にバスルームに向かった。温まりたかったいうこともあるが、それ以上に身体に纏わりついている嫌な感じを綺麗に洗い流したかったのだ。
湯船につかりながら天井を見上げ、今日起きたことを思い起こす。
取り合えず目的は達成できた。次にやらなければならないことも解った。それともう1つ解ったことがあった。不味そうな獲物に手を出してはいけないという事だ。
ミチルが何時ものように室内着用のスウェットに着替えてリビングに戻ると、紅音が手招きをした。
「妖子さんが呼んでるわ。衣吹さんが来てるのよ、応接室で対応しているから来てって」
うわ、面倒くさそう。とっさに思い浮かんだのはそんな言葉だった。
「行かないとダメ?」
「ミチルが帰ってきてるの知ってるから…。それに待ってるって言ってたから駄目だと思うわよ」
ミチルは眉をひそめて、乾ききっていない髪を搔きむしった。初対面の相手にこの格好のままで、というわけにもいかないじゃないか…。
「失礼します」
着替えを済ませたミチルがおずおずと応接室の扉を開くと、妖子さんの肩越しに真っ赤にな目をして俯いている女性が目に入った。この娘が衣吹なのだろう。
ふわふわのセミロングの髪が、小刻みに揺れている。
その娘はハッとした様子で顔を上げ、ミチルと目が合うと立ち上がって深々と頭を下げた。左腕の包帯が痛々しい。
「本当にご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
ミチルは詫びを入れられるようなことは想定していなかったので、どう返答すべきか迷って口ごもった。
「いえ、あの…」
「ミチルもここへきて座りな」
妖子さんはミチルの方に軽く顔を向け、右の席を目で示した。
「済んだことをグズグズ言ったところで仕方ない。あんたもこれを機にあんな無茶なことをしないように気を付ければいいだけなんだよ。ただし2度目は無いと思っとくれ。次はあたしのところから除名するし協会にも報告する。そうすれば後はどうなるか解っているだろうね」
衣吹は俯いたまま、黙って頷いた。
「それで、ミチルを呼んだのはこの娘から謝ってもらおうというんじゃないんだよ。支払いの件だ。あたしが勝手に決めてもいいんだが、アンタが居るところできちんと話を通しておいた方がいいと思ってね」
「…支払いですか?」
いきなりお金の話とは思わなかった。
「今回の協会から来た正式な仕事だ。衣吹が完了できていれば彼女に払うところだが、今回は最終的にミチルが片を付けたんだ。とは言っても書類の在りかを調べるところまでは衣吹がやってる。となるとミチルが全部ってわけにはいかない。とは言ってもミチルが動かなければ依頼された日程に納めることは出来なかったことを考えると、ミチルの取り分の方がが大きくなるんだよ」
「いえ、私が頂くわけには…」
妖子さんは、立ち上がりかけた衣吹に座るように手で促した。
「いいかい、こういうことは感情的な配慮なんて入れちゃいけないんだよ。きちんと仕事の分担量を考慮して、遺恨が残らないようにしておくべきものなんだ。あたしらの仕事は、人によってやり方も得意分野も違う上に危険性も伴う。そういう仕事を個人の物差しで判断しようものなら、トラブルの種を巻いているようなもんだ」
なるほど、これはサキュバスの仕事に限った話ではない。プログラムの仕事だってそこは変わらない。
「それじゃいいね。衣吹のやったところまでを考えれば折半と言っていい。ただし、途中から引き継ぐ立場から考えればきちんと引き継がれていないのだから面倒が増える。これで6:4。しかし緊急の案件になるので特急料金が載って7:3。簡単に考えればそんな所だろう」
「それでは私の気が収まりません。私が途中で放棄したわけで面倒もかけているわけですから…」
ふんっ、と妖子さんは鼻息を荒くする。
「人がいいことが褒められることは無いよ。ただアンタの気が収まらないというなら、迷惑料込みで8:2だよ。これでいいね」
息吹を見送った妖子さんはミチルの前で、誰に向かうでもなく口を開いた。
「今回はけがで済んじまったが、ああいう娘は妊娠して、さっさと子供産んじまった方がいいんだよ。その方がいい仕事が出来るようになるもんなんだよ」
「…厳しいんですね」
「…年寄りの世迷言さ、気にしないでおくれ…」
「おや珍しいね、夕飯にうどんって」
「今日はミチルちゃんのリクエストなのよ。どうしてもさっぱりしたものが食べたいって言うから、関西風のおうどんにしたんですよ。天ぷらも色々用意してあるから好きなもの取ってくださいね。このゴボウのささがきの天ぷら、お勧めなんですよ」
紅音は嬉しそうな様子で、天ぷらを盛った有田焼の大皿をテーブルの中央に置いた。
ゴボウの他にはナス、春菊、舞茸、サツマイモといった具材の天ぷらが山盛りになっていた。何故か肉類は無い。
「そういえば青い顔して帰ってきてたけど、何があったんだい」
妖子さんが皆の分の箸を配る。
「今は思い出させないでください。折角紅音さんが作ってくれたうどんが食べられなくなります」
「ミチル、本当にひどかったもんね」
アナが気遣う中、暖かいつるりとした喉越しのうどんをお腹に入れ、お腹が落ち着いてくると、ミチルの気分もやっと落ち着いてきた。
「それで一体、何があったんだい? 今日の調査は問題なく出来たんだよね」
食後のコーヒーを飲みながら、妖子さんがミチルに尋ねる。
「ああ、ミチルはいいわよ。あたしから説明するから」
アナがミチルを気遣ってくる。
「最初に部長の方の聞き取りは問題なかったのよ。あたしが前に襲ってたし、聞きたいことはすんなり聞き取りできたの。それで、その後常務っていう女の人を呼んでもらってミチルが襲おうとしたんだけど、そこからおかしなことになっちゃってね」
「え? うまくいかなかったの?」
紅音がキョトンとした様子で確認する。
「ミチルがフェロモンで押さえようとしたんだけど。きちんと効かなかったのよ。意識が中途半端に残ったままで、仕方ないから部長に押さえつけさせてから襲ったんだけど、その後急にミチルが真っ青になっちゃって。結局トイレに行って吐いちゃったのよ。毒性のある精魂なんて聞いたこと無いけど、そんな感じだったわ」
ミチルはげんなりした顔をしている。
「その後、聞き取り自体は問題なくできたから良かったんだけど、ダメかと思ったわ」
「…そんな話は聞いたことが無いね。ミチルとしてはどういう感じだったんだい」
妖子さんの確認に、ミチルが眉をしかめながら答える。
「そうですね、フェロモンで捉えた感じが全く無かったのもあるんですけど。首筋の精魂の流れがとても弱く見えて…、それでも頑張って吸い出したんですけどカサカサっいうか、ドロドロって言うか。とにかく気持ち悪くて…」
「…ああ、そういう事ね」
妖子さんは暫く考えてから、ボソッと思いついたように口を開いた。
「それはおそらく女性特有の問題だね」
「女性ですか?」
「厳密には男性でもあり得るんだが、精魂って言うのはいわば性欲のエネルギーみたいなものだって事は理解できてるかい?」
「なんとなくですけど」
「獲物を見つけたら。狩る前に対象にフェロモンを向けるだろう。それで男は性欲が一気に上がり、正常な思考が出来なくなる。あたしらはそうやって精魂エネルギーを効率よく吸収するわけだ。それでもまれに性欲が上がらない男もいる、彼らはあたしらの狩りの対象にはならない。吸っても意味が無いからね。それで、おそらくミチルが今回対象とした相手がそういう女性だったってことさ。そう考えれば説明ができる」
「それって女性特有って事じゃないんですよね」
「いや、そうでもないんだよ。女は男に比べてもともと性欲は強くない。ホルモンとの関連も大きいし、年齢との関係もある。ミチルが今回襲った女性は年齢が高かったんだろう」
「50過ぎ位だと思いますけど」
「なるほどね、そりゃ既に閉経してるんだろう。フェロモン向けて反応が無かったって言うのはそういうわけさ。男はね、70だろうが80だろうがフェロモン向けりゃ勝手に発情するけど、女はそうはいかないよ。若くても男性経験が無けりゃ、それと気が付かないこともあるだろうさ」
「それって私たちが獲物を選ぶときに『おいしそう』な男を選ぶわよね。それと関係あるのかしら」
紅音が納得したように尋ねる。
「そうだね、確認したことは無いが、『おいしそうな男』は元々の性欲が強いのかもしれないね。ミチルは獲物を選ぶときに『おいしそう』な女性を選ぶのかい?」
「あ、それ解ります。理由解らないけど『おいしそう』な娘とそうじゃない娘がいますから。そういえば渡辺常務は最初から『不味そう』って思いましたから。そういう事なのかもしれません」
「ミチルには可哀そうだけど、女相手の方が色々と難しいのかもしれないねぇ」
しみじみとした様子の妖子さんに、みな頷くしかなかった。




