あの日のあの後1
「うう、うっ。よかった。未千流ちゃんと生きてたんだね…」
未千流の顔を見た途端、紅音の顔はぐしゃぐしゃに崩れて、その目からは涙がボロボロと零れ落ちた。
「紅音…」
どう反応すべきか戸惑う未千流に紅音が勢いよく抱き着いてきたので、未千流はよろけて1歩後ずさった。
「紅音! そんなところで止まってたら入れないじゃないの」
紅音の肩越しに玄関で不機嫌そうに立ち止まっているアナが睨んでいるのが気になる。
「…だって、そんなこと言ったって、…」
紅音は未千流にしがみ付いたまま動かない。
未千流は紅音の背中に回した手で、子供をあやすときのようにポンポンと背中を叩いた。
「ごめん、紅音、わたし大丈夫だから…」
玄関前の細い廊下を2人が塞いでいるので、アナはその横を無理やり通ると、未千流にしがみ付いたままの紅音の手首を握る。
「いいから来なさいって」
「…うん」
やっと落ち着いた紅音をダイニングの椅子に座らせ、未千流がその横に椅子を移動した。
「ほら鼻かんで」
「…うん、ありがと…」
紅音は渡されたティッシュで鼻をかんだ。
「せっかくの化粧もボロボロじゃないの…」
「……あんまり見ないで…」
とは言っても、そもそも紅音の化粧はあっさりとしたナチュラルメイクなので崩れると言う程ではないのだが。
「はい、未千流の荷物!」
ドンと音を立ててアナがテーブルの上に未千流のハンドバッグを置いた。
「ありがと」
「まったくしょうがないんだから」
アナはキッチンに移動すると、当たり前のようにコーヒーメーカーの準備を始めた。勝手知ったる何とか…、と言うわけだ。
「それで、あれからどうなったわけ?」
アナは3人分のコーヒーをテーブルに並べると、自分も腰を下ろす。
「ごめん、わたしは化粧直して来るわね…」
アナが腰を下ろすのと同時に紅音が腰を上げた。未千流は突然立ち上がった紅音の行く先が気になった。
「あ、それならそこのドア開けるとドレッサーあるから…」
「うん、ありがとう」
そう言って紅音はポシェットを手に寝室のドアを開けた。そういえば前回荷物を持ち出した時に一通り配置を見られていたんだった。
「それで…」
話の腰を折られたせいか、アナの声には棘があった。
「ええと、それでって何が…」
「何がじゃないでしょ。あの後どうしたのか聞いているのよ!」
アナの掌がテーブルに置かれた。
「その、あの後ってのが解らないんだけど…」
アナの勢いに未千流はびくついた猫のように身体を引いた。
「だ・か・ら! 公園で、何があった! 訳なの!?」
アナの眉が吊り上がり、頬はプクっと膨れている。なぜか可愛い。
「ごめん、アナ。会社から連れ出されたところまでは何となく憶えてるんだけど、そこから先憶えて無い、…だから逆に教えて」
「ええええ。未千流、あんたまた肝心なところ覚えて無いわけ。あたしを襲った時の記憶も怪しかったのよね」
あああ、その話は聞きたくない。未千流にはピンクの唇の記憶しかないのだ。
「申し訳ないとしか言えません」
未千流は申し訳なさそうな顔をして小さく手を合わせた。
「あなたたち、何またコントやってるのよ」
落ち着きを取り戻した紅音が寝室から出て来るとドアを閉めた。未千流が振り返ると、その顔は何時もの優しい笑顔の紅音に戻っていた。
「未千流ったら何も覚えて無いんですって」
アナが不機嫌な顔をぐるっと紅音の方に回す。
「覚えて無いんじゃ仕方ないでしょ」
紅音はテーブルの上のコーヒーカップを取り上げると、床の上のクッションに座り直した。
「それじゃ、禁断症状起こして女の子を襲ったって話も覚えて無いのかしら」
「ちょ、ちょっと。それってどういう事…」
思わず未千流は腰を上げる。
「ダメみたいね」
アナが諦めたように肩をすくめてため息をついた。
「それじゃ聞くけど、どうやってここに帰ってきたか覚えてるの?」
「…それも覚えて無いんだけど。…自分で飛んできた、みたい…」
「みたいって、どういうこと?」
アナと紅音の声が重なった。
「あ、あのね。朝起きて自分でサキュバスになれるって気が付いたのよ。それで翼も出たから、多分これで帰って来たんじゃないかな…、って思ったの」
ちょっと、もじもじしている未千流は赤くなった。
「え、自分でって事は…」
「それって…」
アナと紅音は目を丸くして顔を見合わせる。
「今やってみれるわよね」
未千流は2人の注目を集めて思わず逃げ腰になるが、逃げる場所などない。
「ここで、やるの?」
2人はうんうんと頷いた。どうしてそんなに目がキラキラしているんだ。
未千流は諦めて立ち上がると、上に来ていたスウェットを脱いで椅子の背に掛けた。そうしないとまた1枚スウェットがダメになる。やればいいんでしょ、っと諦めて未千流はフェロモンを全身に流した。
髪がサラリと肩の上を流れていくのを感じ、背中に圧力が掛かる。朝確認した時とは違って、翼が広がる感覚が解っていたので、背中を丸めるというよりは胸を張るようにしてバランスを取って翼を広げて軽く動かした。
自分では確認できないが、きっと目は赤く輝いているのだろう。
未千流は半ばやけくそになって、どや顔で2人を見下ろした。
「なにそれ、本当に白い翼って…」
「…言った通りでしょ」
「って、未千流、なんで翼まで出てるわけ!?」
アナの驚く声に目をやると、紅音は手を口に当てて息を呑んでいる。
……何をそんなに驚いているのだろう?
「未千流、サキュバスって昼間のうちは翼出せないのよ」
「えっ?」
翼、普通に出せるんだけど。わたしの翼って、色の違いだけじゃなかったの?
「それって、どういうこと?」
「何言っているのよ、あたしの方が聞きたいわよ」
「ねえそれ、まさかとは思うんだけど、昼間も飛べるってこと無いわよね…」
「判らないけど…」
飛べそうな気はする。
未千流が翼をゆっくりと動かして、フェロモンを集中させると足元が軽く浮かび上がる。しかしこんな狭い部屋で飛んだら大変なことになるので慌てて翼を閉じてサキュバス化を解除。足元がちょっと危なくなってよろけ、冷や汗が出るがその場に押し留まることが出来た。
「今浮かんだわよね…」
「そうみたいね」
「これって、協会にでも知られたら大問題になるわよ」
「なんで未千流ってこんなに問題ばっかり持ち込んでくるのかしら」
紅音は心配そうに、アナは呆れたという様子で頭を抱えている。
「そんなこと言われても、わたしはどっちかと言えば巻き込まれただけだと思うんですけど」
未千流は椅子の背に掛けていたスウェットを取り上げた。
「それにしても、この匂いは凄いわね。兎に角換気扇付けましょ」
アナが、眉間にしわを寄せて台所の換気扇のスイッチを入れに行った。
「え? 匂いって何? わたし臭いの?」
「あのね、臭いっていうわけじゃないのよ。未千流のフェロモンの質が変わったみたい。以前はちょっと変わってるなって思った位だったんだけど、今の未千流のフェロモンって凄く男らしい匂いって言うか…」
紅音がフォローしてくれているのだが…。
「男らしい?」
「あのね、多分、女性を誘うフェロモンに成ったんじゃないかしら。私達のとは全然違うのよ」
ビックリ目の未千流にアナが追い打ちをかける。
「あたしの時もそうだったし、未千流のサキュバスは百合属性らしいわね。そんなサキュバスなんて聞いたこと無いけど」
百合! わたしにそういう趣味は無いんですけど。元々女らしくないとはよく言われてたけど、それが更に男らしいとは。
って、なんで紅音さんそんなに嬉しそうな顔してるの?
「未千流そんなに落ち込まなくても大丈夫よ。ほら帰ったら妖子さんに相談しましょ」
どんよりと落ち込む未千流をよそに、アナと紅音で食器類を片付けてハナハナに戻る準備をはじめた。気を利かせて追加の服を紅音が取りまとめてくれている。
マンションの外に出ると雪がちらついていて、地面がうっすらと白くなっていた。
「うわぁ、未千流。ほらこのまま積もったら今晩はホワイトクリスマスになるわよ」
紅音が嬉しそうに空を見上げて未千流を励ましてくる。言われてみれば今日はクリスマスイブだった。
「クリスマスなんて気分じゃないでしょ。ほんと紅音のそう言うところは尊敬するわ」
アナは未千流の手を引いて車に乗り込んだ。
「運転大丈夫なの?」
「まだ積もって無いから大丈夫よ。さ、行きましょ」




