おとぎ噺
目が覚め、虚ろな視界で壁にかけられた時計を見遣る。
やけに凝ったデザインをした時計の針は、今先ほど7時を通過したばかりのようだった。
昨日寝るのが遅かったこともあり、思いのほか寝すぎてしまったようである。
その事実を受け止めながら、慣れ親しんだ自室で身支度を整えた。
朝食は学園に戻ってから寮で取るつもりでいたが、母がどうしてもと言い張るので、母お手製のミートパイを二人で食べることになった。
穏やかな朝の静かな朝食。
そういえば、昨日の朝以降まともな食事を取っていなかったな、などと呑気に考え事をしながら、出来立てのミートパイを無心で口へと運び続けた。
そのまま、何が起こる訳でもなく時間は進み、居間にある巨大な時計が8時を回ろうという頃、ようやく出立の決意を固めた私は、母への挨拶を済ましてから学園に戻ることにした。
「また。また一緒に食べましょうね、ミートパイ」
少しばかり寂しそうな表情をしながら呟く母に、私はもちろんです、と努めて力強く答えた。
居間を出て、廊下を渡り、少しばかり開けた玄関から外へ出る。
なんということはない、いつもの日常。
いつもと少しだけ違うことがあるとすれば、それは、目の前に広がる凡庸な景色の中に、予期せぬ人物が映り込んでいたことだろう。
「グレイシス……様……?」
辺りの景色が色濃く見えてしまうほどの儚さと透明度を携えて、その人は立っていた。
「あ……メルヴィン嬢、か。その……おはよう」
「おはようございま、す……?」
「………………」
「………………」
――――き、気まずい。
いまだかつてないほどの気まずさが、私と青年の間に流れた。
こ、こんなことが今まであっただろうか……。
出来得る限りの範囲で記憶を遡ってはみたが、身に覚えなどは一つもなく、為す術がなくなった私は、呼吸だけをただ当たり前に繰り返した。
「そうだ。君に伝えようと思っていたことが……」
「……なんでしょうか?」
「その……。アシェリーとアランが学園を去った理由なのだが……」
「はい……」
「アザナス・エインラッドに直接確かめた。端的に言うと、自滅……なのだそうだ」
グレイシス様は、それ以上のことを口にしようとはしなかった。
恐らく、結論以外の余計な情報を、私に聞かせたくなかったのだろう。
「そう、だったんですね」
青年の意図を汲んで、あえて質問はせずに話を終わらせた。
「………………」
「………………」
再びやって来る無言の時間。
自分が青年の存在を意識しすぎるせいか、会話がないという状況がやけに気になる。
「あ、あの! 私、これから学園に帰るところ、なのですが……。よければその……グレイシス様もご一緒に、どうです!?」
なるべく自然に、且つ、できるだけ軽快な口調を意識しながら発した言葉は、そんな当人の思惑とは裏腹な異音へと成り果てた。
「あ、ああ……」
珍しく曖昧な返事をする青年。
私は、自身の発言に対する気恥ずかしさから逃れるように、彼のその、憂いを帯びた表情を眺めながら一歩踏み出そうとして――
「メルヴィン嬢!!」
咄嗟の呼びかけで静止した。
「どうか、しましたか?」
「………………。僕は君に、どうすれば赦されることができるのだろう」
「赦す? 一体何をですか?」
「僕のせいで、君を危険な目に合わせてしまった。だから……」
そこで、はと気が付いた。
先程からの青年らしからぬぎこちなさといい、思い切りのなさといい、普段の彼からは想像が出来ないほどの狼狽ぶりを見せていたのは、全てそれが原因だったのだ。
自分の身に起こった出来事でありながら、だからこそ抜け落ちていた一つの解釈。
――グレイシス・アスタインという人間は、自らの過失によって、私が危機に直面してしまったという罪の意識に苛まれている。
「……そうですよね。そう、なりますよね」
自分が関わらなければ、自分が動かなければ、メルヴィン・ローズがこんな目に合うことはなかった。
こうして私を見つめている今も、そう思っているのだろうか……。
そんなことを考えながら一歩、青年に歩み寄った。
「君の無事をこの目で確認できたら、アーネスト氏にも直接謝罪を入れようと思っていた」
微かに震える声。今にも泣きだしてしまいそうな顔。
それを見て無意識に、寮で許すと言った時と同じ関係性と距離感を保ちながら、私は、あの時とは真逆の言葉を口にしていた。
「赦しません。誰がなんと言おうと、私があなたを赦しません。……だから、いつか私があなたを赦せるその日まで、私の傍から離れないでください」
危うさには縛りを――。
軽さには重りを――。
私の言葉一つでどうにかできることがあるのなら、それに縋って、少しでもグレイシス・アスタインという人自身の意義を見い出して欲しい。と、そんなことを願ってしまった。
……なんて押し付けがましい願望だろう。これを人はエゴと呼ぶのだろうか。
そんな私のわずかな迷いを払拭するように、律儀にも青年は片膝を付いて答えた。
「――仰せのままに」
まるで、おとぎ噺の登場人物のように、凛と、静かに顔を伏せる様を見て、自分が主役にでもなったかのような錯覚を引き起こす。
トクン、と脈打ちそうになる気持ちをぎりぎりのところで押し留めながら、私は口を開いた。
「では、用事も済んだことですし、私はそろそろ学園に向かいます」
「そうか。僕はこの後、少しばかりアーネスト氏に用がある。ここでお別れだ」
立ち上がりながらそう告げるグレイシス様の表情は、いつもの端整な面持ちへと戻っていた。
「そのようですね」
軽い会釈をしてから青年の横を通り過ぎ、いつもの日常へ戻るように歩みを進める。
……次に会えるのはいつになるだろうか。
……次、会った時はあの話とこの話をしてみよう。
いつ来るかも分からない日のことを一人考えながら、緩やかな足取りで十数歩目を踏みしめた。
次の瞬間、
「そういえば。君の友人の――……」
何かを思い出したような声が背後に響く。
「え……?」
思わず振り返った私に対して、グレイシス様はどこか申し訳なさそうな顔をしながら、
「……いや、すまない。今のは忘れてくれ」
とだけ呟いた。
そのまま背を向けてローズ家へと向かっていく青年。
その姿をぼーっと眺めながら、彼の残した友人という二文字を反芻し続ける。
どこかありふれているようで、その実、おぼろげでもあるそのワードは、自然と、ある人のことを思い出させた。
――誰よりも無欲で、誰よりも実直で、誰よりも意思を有さなかった青年。
彼と過ごしたわずかな日々の思い出に浸りながら、私は再び学園への歩みを進めるのだった。
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