父の本心
ホルスに送り届けられて、ようやく私はローズ家の門を潜ることができた。
「では、ホルスまた、」
そう言って後ろを振り返ると、そこにいたはずの友人の姿はすでになかった。
「………………」
さよならも告げず、いつの間にかいなくなってしまっていた友人に、幾分かの未練を残しながら、目の前の扉に手をかける。
ガチャリ、という重苦しい音と共に目に入ったのは、今まで一度も見たことのない、父アーネスト・ローズが見せた驚きの表情だった。
父は、一瞬目を見開いてから普段通りの仏頂面へと戻る。
「誰か、メライアを呼んでくれ」
そして、母の名を口にしてから、また口を噤んだ。
決してそこまで広くはない廊下に流れるわずかな沈黙。
それに耐えきれなくなった私は、型にはまったありきたりな挨拶をするのだった。
「……ただいま、帰りました」
「怪我はない、か?」
「軽いかすり傷程度です」
「そ、そうか。それは早く治療しなくてはな。……取り合えず、中に入りなさい」
「はい……」
数十歩進んだ先にある居間へと通され、そこでお手伝いのスズネから軽い治療を受けた。
そのまましばらく、なるべく姿勢を崩さないよう気を遣いながらソファーに腰かけていると、急遽、居間への扉が容赦なく開き、
「メルヴィン!! 無事だったのね……!!」
慌てふためいた様子の母が姿を現した。
「あの……、ご心配をおかけしました……」
「心配……。そう、わたくしは心配したんですよ!! お父様は詳しいことを話してはくれませんし……」
言われて窓の外に視線を移すと、すでに日が沈みかかる直前だった。
母は今日一日、昼までに帰るはずだった私のことを、理由も聞かされず、ただずっと待ち続けていたのだろう。
普段は父の顔色を窺って、自身の感情をほとんど口にすることのなかった母が、脇目も振らず私のもとへ駆けてくる様子を見て、緊張の糸が一気に解けてしまった。
「ああ、よかった……。本当によかった……」
そっと頬に添えられた、母の手の温もり。それを感じ取った時、自分でも可笑しくなってしまえるほどの稚拙な感情が、一瞬にして溢れ出た。
「わ、たし……お母、さま、っ。わ、わた……し、っ…………」
「ええ、そうね。メルヴィン、よく頑張ったわね……」
何も知らないはずの母は、まるで全てを分かっているかのような口ぶりで、私のことを優しく抱きしめる。
私は、それまでの何もかもを忘れ、母、メライアの腕の中でひたすらに泣き続けた。
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目が覚めると、窓の外は真っ暗だった。
泣きつかれた私は、そのまま居間にあるソファーで眠ってしまったようで、身体には薄めのブランケットが掛けられていた。
重い頭と身体を無理やり起こして、私は、家屋の最奥にある父の書斎へと足を運ぶ。
今回のことで、父に責を負わせるつもりは微塵もないが、せめて、その説明責任だけは果たしてもらおうと思っての行動だった。
「……あの、お父様いらっしゃいますか?」
コンコン、と軽くノックをして声をかけると、書斎の扉がおもむろに開いた。
「目が、覚めたのか。……入ってくれ」
「はい。失礼します」
そのまま、促される形で書斎の椅子に腰かける。
「お父様に、聞きたいことがあります」
「私からも、お前に話さなければならないことがある」
私の前の席に座りながら、父であるアーネストは口を開いた。
「どこから話すべきか…………」
顔の前で手を組みながら目を泳がせる父に、私は何よりもまず初めに聞きたかったことを尋ねた。
「なぜ、教えて下さらなかったんですか?」
「なぜ……というのは、どのことについて、」
「全部です。最初から最後まで全部。我が家がダーシー家に無利子の貸付を行っていたことも、そのせいで我が家の経営が傾いていたことも、アザナス・エインラッドから不条理な誘いを受け、それを断っていたことも含めての全部です」
思いのほか腹が立っていたのか、語尾が自然と強くなっているのが自分でも分かった。
「そこまで知っていたのか……」
「私には知る権利があります。違いますか?」
「……その通りだ、メルヴィン。私が間違っていた。――私はお前に、メライアを重ねて見てしまっていたのだ。許して欲しい」
唐突に吐き出された父の本心に、私は一瞬で気が緩んでしまった。
「どういう、ことですか……」
「お前の目に、母であるメライアはどう映っていた?」
「私の、目に……。お母様は……いつもお父様の後ろを一歩引いて歩くような、そんな絵に描いたような淑女のような人に、見えていました」
「……そうか。それで間違いない。メライアは本当によくやってくれている」
組んだ手を、ただじっと見つめ続ける父。私にはその意図がよく分からなかった。
「話が一向に見えてこないのですが……」
「メライアはな、あまりにも多くのことを知りすぎると、気持ちが不安定になってパニックを起こしてしまうのだ」
「え――――」
躊躇いがちに紡がれた言葉。それは私の理性を、驚くほどすんなりと納得させていた。
これまで一度たりとも、母が自らの意思で動いたことはない。いつも何かあるごとに父の判断を仰ぎ、それを受け入れていた。私はそんな二人のやりとりを見ながら、自分の理想も、恐らく母のような在り方なのだろう、とどこか諦めた気持ちを抱いていたのを覚えている。
それらの起因が、母メライアにあったと知った今、両親の不可解にも思えた行動全ての辻褄が、嫌でも合ってしまった。
「昔はそうではなかったらしい。私が会った時には既に、メライアの心身はぼろぼろだった」
「どうしてそんなことに……」
「それは私にも分からない。ただ、彼女自身が驚くほど純真で、ほんの些細なことにも心が揺れ動いてしまうことが、ある意味では裏目に出てしまったのかもしれない」
そう、母のことを語る父の表情は、おのずと和らぐのだった。
「だから私が守ることにした。彼女が不安になるような余分な情報は、全て私の中で飲み込んで、ただ穏やかに、日々の暮らしに身を委ねて欲しかった。――私はそんな自分の理想を、いつしか娘であるお前にまで押し付けてしまっていたのだな……」
どこか申し訳なさそうに、父であるアーネストは呟いた。
「……そう、だったんですね」
「……すまなかった」
正直なところ、私と母の存在など、父にとっては手段の一つでしかないのだろうと考えていた自分がいる。
……けれど。事実としてそこにあったのは、大事なものを自らの手の内で守りたいと願う、一人の人間の性にすぎなかった。
そんな、誰にでもあるような願望を前にして、私は一人、父の姿に自分の姿を重ねて見てしまう。
その姿は、あの日の自分とよく似ていた。
――定期舞踏会で、グレイシス様の手を必死になって繋ぎ止めようとしていた、あの日の自分の姿に。
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