電話の主
ある日の早朝。青年は日の出前から、頼りない灯りの下、情報集めに勤しんでいた。
昨日見聞きした話と、自分がこれまで調べ上げた知識。
それらを合わせてもなお、辿り着きたい答えには辿り着けそうにない。
わずか三時間足らずという睡眠時間の短さが、能率の悪さに更に拍車をかけているような気がしてならなかった。
それでも。一刻も早く導き出さなければいけないことがある。
それは、アザナス・エインラッドが持つ一種の弱み。それに他ならない。
弱み、一つでいい。それが見つかれば彼女を守る手段となり得る。
既に斥候を送り済みの相手が、これ以上怪しい動きを見せる前に、自分が何とかしなければ――……。
無限に湧き続ける汚泥のような不安に駆られながら、青年は一つの資料に目を通した。
「ホルス・リオネット……」
資料に書かれた文字を無意識に読み上げる。その声は、誰もいない室内へと静かに響いた。
「ダンプルの孤児院出身で、正確な年齢は不明。十数年前から既にエインラッド家に出入りしており、最近ではアザナス・エインラッドについて回る様子が終始目撃されている、か……」
添付された写真を横目に、次から次へと綴られた文字の並びに目を通す。
計三枚半にまとめられたそれは、限られた時間の中で作られたとは思えないほど充実した色濃い内容となっていた。
自身の偵察役の才幹に感心しながらも、細心の注意を払って中身を精査する。
他の資料と照らし合わせるなどして調べごとに没入している内に、気が付けば時計の針が朝の十時を指していることに青年は気が付いた。
流石に一度休憩を挟んだ方がいいか……、などと思案していたその時。
「グレイシス様、失礼いたします。許可なく入室してしまい申し訳ありません。火急の用があり直ぐに取り次いで欲しいとの伝言を承りましたので、お伝えに参りました」
部屋の扉をコンコンとノックする音と共に、一人の使用人が入室してきた。
「構わない。で、グリルダ、その相手とは?」
「アーネスト・ローズ様でございます」
その名を耳にした瞬間、青年は嫌な予感に襲われる。
これまで一度も、あちら側からの積極的なコンタクトはなかった。
というのも、あの一件で青年と顔見知りになって以降も、アーネスト・ローズは地道に着々と商人としての立ち位置を守り続け、王侯貴族との不用意な接触を図る素振りすら見せなかった。
そんな一貫した姿勢を崩さない人物が、あえて連絡を取ってきた理由。それを想像するよりも先に、不穏な空気を感じ取った青年は、急ぎ足でグリルダの後を追って部屋を出ることにした。
「場所は?」
「電話は使用人室にございます。――こちらです」
グリルダの誘導で、普段は滅多に入ることのない使用人室に足を踏み入れる。
「まだ繋いだままになっております。どうぞこれを」
中で待ち構えていた使用人の一人が、驚いた顔を見せつつ青年に電話の受話器を差し出した。
それを受け取り、耳にあてがった青年、グレイシス・アスタインは、一息ついた後に電話の向こうにいる相手へと静かに話しかける。
「待たせてすまない。グレイシス・アスタインだ」
「…………このような形での連絡となってしまったこと、心からお詫び申し上げる。しかしながら私も人の親として、今回ばかりは静観し続けることが出来なかった。許して頂きたい」
「火急の用だと伺った。であれば、礼は不要。用件を聞かせてくれ」
「かたじけない。……では手短に。さきほど我が家にアザナス・エインラッド様より連絡がありました。娘は預かった。返して欲しくば、このことをグレイシス・アスタインに伝えろ、と」
「それだけ、か?」
「はい。後は私自身への忠告だけです。余計なことをすれば娘の安全は保障できない、と」
「そう、か…………」
青年は、動揺するのを堪え、極めて冷静に努めた。
自分がここで慌てふためく様子を見せれば、電話の向こうにいる相手にまでそれが伝わってしまう、と危惧してのとっさの行動。
それは、常に誰かの上に立ち続けた者にしか出来ない、ある種の特異な能力だった。
内心では焦りながらも、相手を安心させるように、そのまま淡々と話を進めていく。
「メルヴィンはまだ、そちらに帰ってきてはいないのだな?」
「はい……」
「分かった。余計なことはせずに、そのままいてくれ。後のことは僕がなんとかする」
「……分かりました」
気丈に振る舞いつつも、声色に明らかな失望を潜ませるアーネスト・ローズ。
「……すまない。僕がメルヴィンを危険な目に……」
「いいえ。それは違います。あの娘は自ら進んで、グレイシス様、あなたに関わっているのです」
アーネストの言葉は、恐ろしいほど率直で、端的に要点だけを伝えるものだった。
飾り気のない愚直すぎる物言いは、ある日のメルヴィン・ローズを彷彿とさせる。
やはり父娘だな……と思いつつ、言葉の真意を尋ねようとした青年。
「それは一体どういう……」
それを遮るような形でアーネストが告げたのは、形式的な挨拶。
「娘のことを、どうかお願いします」
それは、ただ一つの信頼だけを頼りに発せられた、下手すれば曲解できてしまうほどの短さしかない、比類なき父親の言葉だった。
「承った」
青年は、あくまでも事務的に、けれど敬意を込めた返事をする。
そして、握りしめていた受話器をゆっくりと元の位置へと戻すと、自身の中に立ち込める一切の感情を排除して、目の前にあるやるべきことを見据え始めた。
「グリルダ、少し出る。車の手配を頼む」
「承知しました。お帰りは何時になりますか?」
「そう遅くはならない。それ故、あの二人への報告は無用だ」
「……ですが」
「いらぬ心配をかけたくはない。頼む」
「……承知しました」
「ありがとう」
使用人への指示を出し、てきぱきと身支度を済ませた青年は、普段から通学に利用している馴染み深い車の後部座席へと乗り込む。
そして、運転席に座る老人に一言二言何かを呟いた後、使用人であるグリルダに視線で合図を送りつつ、自らの手でドアを閉めた。
そのまま、グレイシス・アスタインを乗せた車は動き出す。
屋敷の入り口には使用人だけが一人取り残される形となった。
残された、使用人長でもあるグリルダ・エスタランゼは、ゆっくりと丁寧なお辞儀で車を見送る。
その儀礼的な作法は、主の乗った車が見えなくなってからも、しばらくの間続けられるのだった。
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