一切合切
いつもより少しばかり遅めの起床をして、身支度を整えてから寮にある食堂へと向かった。
食堂は休日ということもあり、暇を持て余した生徒達の談笑の場と化していた。ざわざわした空気の中、早々に朝食をとり終えると、一旦自室へと戻り、出かける準備をして部屋を出る。
寮長であるバロワイル婦人には、事前に今日と明日にかけての外出届を提出していたため、特に引き留められることもなく寮長室の前を通り過ぎることができた。
規律を重んじる生徒が大半のコルテシア共同学園内において、正式な手順を踏んだ者への余計な詮索は無意味であると考えられているのだろう。
そのままの足取りで寮を後にし、正門へと続く長い石畳を、両側にある街路樹を眺めながらゆっくりと歩いた。
木々の合間を縫って差し込む光が、ほどよく足元を照らしている。私は、地面に出来た街路樹の影を避けながら、時には踏み抜いて、穏やかな一日の始まりに心躍らせた。
そうして、正門を通り過ぎ、見慣れた学園の塀を眺めながら家への帰路についていた、その時。
暖かな日差しに気を取られていたせいだろうか、
それとも、久しぶりの帰省に気が緩んでいたせいだろうか、
――私は、その男が背後に近づいてくる足音に、違和感に、気付くことが出来なかった。
「汝、メルヴィン・ローズと見た」
「え……?」
振り返る間もなく背後から回された腕。それは、抗えぬ力で私の口を塞ぎ、踠くことすら許さず、一瞬で、意識を奈落の底へと突き落とした。
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カツカツカツ、という何者かが地面を蹴る音で目を覚ます。
最悪の目覚め。
身体のあちこちが痛いし、上手く身動きも取れない。おまけに口は何かで塞がれているため開けることが出来ず、唯一自由のきく目はぼやけて視界は不良。
頭は寝起きのような鈍重さで、現状を理解することもままならず、耳から勝手に入ってくる雑音を聞き流すことしか、今の私には出来そうもなかった。
「ふははははっ、これが上手く行ったら俺達は億万長者。やっと念願の豪勢な暮らしができるんだぜ?」
「ったまんねーよなー! 女一人の監禁だけでいいんだからよ!」
「後はお達しがあるまで、ここで見張ってるだけでいいんだろ? 楽勝だな」
「まあ、こんな寂れた倉庫に、今更用事がある奴なんていないだろうからなぁ」
「ま、万が一に備えて、酒を飲んで身体でも温めておくかぁ!!」
「そうしようぜ!」
「いいな、乗った!」
雑音が会話であると理解した時、ようやく思考が働き始めたのだと気が付いた。
最初にやって来たのは、”何が起こっているのかが分からない”という得体の知れない恐怖。
自由のきかない手足と、はしゃぐ男達を前にして、今まで経験したことのない震えが身体に走った。
次にやって来たのは、現状を恐ろしいほど冷徹に分析している自身への驚き。
無防備すぎる彼らを前にして、恐らく彼らの仕事の大半は、自分をこの場に連れてきたことでほとんど済んだと言えるのだろう、などと悠長に思案した。
――こういうのを火事場の馬鹿力、というのだろうか。
いつしか全身を震わせるほどの恐怖は、現状を打破しようとする非情さの前に打ち消されてしまっていた。
「なぁ、あんたも一杯どうだい?」
「いや……某は結構」
「遠慮することはねえよ、何たって今回の手柄のほとんどはあんたにあるんだ」
「某は与えられた仕事をこなしたのみ。そこに価値を求めてはいない」
「ちっ、釣れねえおっさんだな……」
ようやくはっきりし始めた視界には、銅像のようにぴくりとも動かない男が映った。男は、私の斜め前に腰を下ろしたまま、一切の感情の無い声で酒に酔った仕事仲間に返事をしている。
会話の流れから、この、一見無害そうに見える大男が、私の口を塞いでこの場所まで連れてきたことは容易に想像ができた。
他の者達はさておき、この男には気を付けておくべきだろう。
自分がこの場所から抜け出すための最大障壁を冷静な頭で判断し、あくまでも打開策を模索し続ける。
そうしなければ、一切合切の恐怖に襲われて、思考すらもこの場所に囚われてしまうような気がしたから。
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嫌な予感というものは的中するものだ。
あの日、俺は、自分に課せられた役割を全うするために、主人であるアザナス様に彼女がこれからするであろう行動パターンを報告した。
何にもならないことを祈りながらも、何かのきっかけになることを仄めかす行為。
それがまさか、こんなに、こんなにも早くことを動かす要因になろうとは……。
最悪の事態を想像していなかった自分に、まざまざと現実が突きつけられる。
事の発端は一通の手紙だった。
昼過ぎに届いたその手紙には昨日の日付が記されており、消印が押されていないことから、誰かが直接寮まで届けたものであることは直ぐに分かった。
そこまでの急用を、足の付かない手紙という手法を使って知らせてくる相手は、あの方以外には考えられない。
俺は急いで封を切り、中を確認した。
中には一枚の紙切れ。
そこに記されたものを読んだ時、俺は、俺の報告を微笑を浮かべながら聞いていた主人の意図が、ようやく理解できたような気がする。
『ホルスへ
好機を逃さぬために、私は今動くことにした。
明日、明後日で決着はつくだろうが、万が一、明々後日までメルヴィン・ローズが学園に戻らなかった場合のことを考え、お前に指示を出す。
学園側に、本人から”実家で療養するため数日戻らない”と言付かったとだけ伝えておけ。以上だ』
まるで、それ以上のことは知る必要がないとでも言うように、果たすべき役目だけを記した一枚の紙切れ。
その端を片手で掴みながら、一人黙々と内容を確認した。
自身の立ち位置と、なすべきことを再認識しながら文字の羅列を眺め続ける。
――アザナス様の付き人として、これ以上のことを考えてはいけない。
それは分かっている。
――自分の存在意義を、これ以上求めてはいけない。
それも分かっている。
分かっている。分かっているのに、焦る思考は止まらない。
「メルヴィンの動向を俺から聞き出した上で、決着をつけると決めた……。
万が一の保険として、明々後日、彼女が戻らなかった場合の手まで打っている……」
数少ない手がかりを口にすると同時に込み上げてきたものは、ある一つの惧れだった。
自分の主人、アザナス・エインラッド様は、俺の唯一の友人であるメルヴィン・ローズを、敵であるグレイシス・アスタインを揺さぶる材料として捉えているのではないか……?
その場合、急ぎ届けられたこの手紙の内容全てに説明がつく。
そう。恐らく……恐らくだが、メルヴィンの行く先が分かっていたアザナス様は、誰にも知られないよう彼女を誘拐し監禁するよう手配した。そして、それを餌にグレイシス・アスタインを呼びつけ、屈服させようと画策している。
――それは、あまりにも大胆不敵すぎる策略。けれどだからこそ、他の者を圧倒できる意外性を孕んだ計略。
誰もが踏み留まるところを、飄々と飛び越えてしまえる非凡さを、俺の主人は持っていたのだ。
「………………」
そこまで考えて、いつの間にか握りしめてしまっていた紙切れを、もとの封筒へと戻す。
机の引き出しにそっと仕舞って、手紙を読む前の状態へと立ち返り一息ついた。
……いや、けれど。あの方のことだから、メルヴィンにいらぬ危害は加えないだろうし、用が済んだら無事に帰してくれるはず。だから……大丈夫。大丈夫だ。
あくまでも、主人と自分の立ち位置を肯定する自己暗示。
その上で口から零れ落ちたもの。それは、己自身の在り方を是正する、確かな問いだった。
「問題は、そこなのか?」
彼女が無事に帰ればそれでいいのか?
結果、元通りになればそれでいいのか?
――――違う。違うだろ。
そういうことじゃないはずだ。
それで許されるはずがない。
だって、今、この瞬間にも、彼女は苦しんでいるかもしれないのに――――。
次の瞬間、俺の足は地面を蹴り、部屋の扉を勢いよく開けていた。
真っ白になった頭の中には、脈打つ心臓の音だけが静かに響いている。
妙に冴えた視界と、嫌に軽い足取り。
――ああ、そうか。
余計なものを一切合切排除した頭の中で、一つの答えを手繰り寄せた。
この感覚を、俺は知っている。
この感覚を、俺は一度だけ味わったことがある。
あの時――彼女が二度目の平手打ちをされそうになったあの瞬間。
俺は今と同じように、真っ白な頭で地面を駆けていた。
『あの時は、とっさに身体が動いていたとしか……』
そんな自分の在り方が、メルヴィンの言葉と重なって、なんだか無性に可笑しくなってしまう。
この数日という短い期間の中で、俺はこんなにも、彼女の言動に魅せられてしまっていたのか、と。
出来れば気付かずにいたかった自身の変容ぶりに、改めて気付いてしまったことが、恐らく理由の一つだとは思う。
……では、もう一つは何なのか。
それを考える余裕が無くなるほど一心不乱に、俺はただひたすら走り続けた。
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