許しの言
その日の朝は、特にこれといった用事があった訳でもなく、けれど何かに誘われるように目覚めた。
いつもより早めの起床。時計の針は朝の5時を指し示していた。
まだ目覚めきっていない体を引きずるように、ベッドから起き上がる。
と、自室の扉をノックする音が聞こえた。
朝の5時に、一体……。
平常時にはあまり起こり得ない事象に不信感を抱きつつも、寝間着のまま出るのは流石にまずいと考え、急いで制服に袖を通した。
「すいません。お待たせしました」
拭いきれない疑念を持ちつつ、恐る恐る扉を開けると、そこにいたのはバロワイル婦人だった。
早朝の空気に似つかわしい気力溢れる声で、彼女は挨拶をする。
「おはよう、メルヴィン・ローズ。もしかして寝てたかい?」
「いいえ、ちょうど今起きたところでした」
「それならいいんだが……。こんなに朝早くに悪いね。なにせ事が事だし、相手が相手だったんで、断るわけにもいかなかったんだよ。許しておくれ」
いつもなら、並大抵のことには動じないバロワイル婦人が、今日はやけにそわそわしている。
「何かあったんですか?」
「ああ、実はね。下で、あんたを待っている人がいるんだよ」
「こんな早朝に、ですか……?」
「なんでも取り急ぎだとか、何とかで」
「その方のお名前を伺っても?」
私が質問を投げかけると、婦人はなにやら神妙な面持ちになり、そして一歩こちらへと近づいてひそりと耳打ちをした。
「相手方の名は、グレイシス・アスタイン様だ」
「!」
「なんでも、あんたに用があるとかで――……」
――それは、この数日間、私が渇望し続けていた人の名だった。
「なんだ、あんた知り合いだったのかい」
「あ、いえ、その。知り合いと言えば知り合いですが、別にそこまで親しい訳では……」
「へー。今の顔はただの知り合いにするような顔には見えなかったがね」
「なっ!?」
「まあいいさ。先方は下の休憩室でお待ちだよ」
「あ、ありがとうございます」
「老婆心で言わせてもらえば、知り合いに会うんだったらその寝癖は直しといた方がいいよ」
「えっ……!?」
婦人に指摘され、急いで姿見で自身の姿を確認すると、後頭部に一か所だけぴょんと飛び出た寝癖が見つかった。
「じゃあ、用件は伝えたからね」
慌てる私を満足そうに眺めてから、バロワイル婦人はその場を後にする。
独り残された私は、姿見を凝視しながら、必死になって飛び出た寝癖と格闘するのだった。
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階段を降りて突き当りの廊下を左に曲がる。そのまま真っすぐ進んだ先、寮の入り口手前の場所に休憩室はあった。
普段は生徒達が集まって談笑したり、時には来客を招き入れたりと、様々な用途に使われている休憩室だが、早朝5時を回ったばかりのこの時間は、流石に閑散としている。
そんな、しんと静まり返った室内の雰囲気に溶けこむように、その人は立っていた。
窓の外を眺める彼の横顔は、外から降り注ぐ光によって、よりその神秘さを際立たせている。
「お待たせしました」
私がひっそりと話しかけると、それまで彫像のように整っていた表情に温かみが付加された。
「やあ、久しぶりだ。メルヴィン嬢」
その声に、その瞳に、鼓動が脈打つ。
頭の先から爪の先までが、何かに捉われてしまったように熱を帯びている。
ああ、ようやく。ようやく私は会えたのだ。
そんな、浮かれてしまいそうな自分を律するように、私はいつもの自分を取り繕った。
「お久しぶりです。グレイシス様」
「こんなに朝早くからすまなかった。どうしても君に会って、伝えておきたいことがあったのだ」
「そうでしたか」
……会うのが久しぶりだから、なのだろうか。自分でも驚くほどに、青年への態度がぎこちない。
これまでの私は、彼とどう接していただろうか。一体全体、どんなやり取りをしていただろうか。
それまで散々、焦がれて焦がれて仕方がなかったくせに、いざ会ってみると、どうすればいいのかが分からなくなってしまった。
そんな私の心境など知るよしもないグレイシス様は、平然とした態度で尋ねる。
「最近、身の回りで何か変わったことはあっただろうか」
「最近、ですか? これといって特になかったような……普段通りだったとは思いますが……」
と、咄嗟に答えてはみたものの、よくよく頭を巡らせてみれば、普段通りではない出来事は普通にあった。
「あ……」
「何か、あったのか?」
「あ、いえ。そこまで大袈裟な話でもないですが――……」
という前置きを添えて、私はリエラ・レイゼットとの間に起きた事の顛末を話した。
「そんなことがあったのか……」
「幸いなことに、途中で介入もあったので大事にはなりませんでした」
「打たれた頬は大丈夫だったのか?」
「はい。次の日には腫れも引いていたので」
そう言って、打たれた側の頬を抑えてみせた。
すると青年は、すっと伸びた白い指先を私の頬へと伸ばし――けれど触れることなく、だらりと下へ落としてしまう。
「――――――」
一瞬の出来事に思わず息を呑んだ。
「痛い思いをさせて、すまなかった」
侘しくぶら下がった手を握りしめながら発せられたのは、悲痛のこもった謝罪。
「なぜ、グレイシス様が謝るんですか?」
「それは……」
青年は、少し戸惑いの表情を見せてから、
「僕に関わることで君が傷つくと分かっていても、僕が、君に会いたいと願ってしまうから、だろうか」
儚いものを慈しむような目で私を見た。
それは、自身の行いを咎めながらも、自身の欲求から目を逸らせない者が吐いた懺悔の言葉。
恐らく今の告白は、これから先、私の身に何かある度に青年を追い詰めていくのだろう。
ここで何か言ったところで、その罪悪感を根底から消し去ることはできない。
――――であれば、私が返す言葉は一つ。
「許します」
何者にも負けない熱量と、絶対的な冷淡さを持ってして、他の誰にも出来ないことをした。
「私があなたを許します」
「………………」
傲然と告げられた容認は、相手の異論を認めることなく、ただ、
「仰せのままに」
圧倒的な服従だけを求めた。
********************
時間の経過と共に、寮内が少しずつ騒がしくなり始めた頃。
「では、そろそろ行くよ」
人目につく時間帯に、この場所にいるのは流石にまずいと思ったのか、グレイシス様は休憩室の扉に手をかける。
私は、限られた時間の中で行われた、ほんの少しのやり取りを惜しむように口を開いた。
「はい。あの……その……」
「そうだ、ここに来た目的を忘れるところだった。メルヴィン嬢、今日の昼食を一緒にどうだろうか」
「昼食……。あっ、い、行きます!」
「よかった」
思いがけないタイミングでの突然の誘いに驚きながらも、気持ちは前のめりになっていた。
ほっとしたように微笑を浮かべるグレイシス様。
その様子を見て、なぜ彼が朝早くからわざわざこの場所に足を運んだのか、理由がようやく分かってしまった。
「もしかして、伝えておきたかったことって……」
「今の言葉だ。あまり人を誘うことには慣れていない故、不備があったら教えて欲しい」
「あ、いえ。全然、今ので大丈夫です……けど」
「けど?」
「あ、いえ! なんでもありません!」
きっぱりと言い切る私を見て納得したのか、場所は礼拝堂で頼む、と告げて青年は休憩室から出ていった。
確かに、何も間違えてはいないし、不足してもいない。
……けど。まさか。
まさか朝起きて一番に、しかもあんなにさらっと、とんでもない不意打ちを食らうとは。
誰もいなくなった休憩室で一人になった私は、その心情を隠しきることも出来ず、ただただ赤面するばかりだった。
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