揺れる人
「なぜ――……」
「え?」
「なぜ、抗ったんですか?」
ようやく適温まで下がった飲み物を飲み終えた時、唐突にホルスから脈絡のない質問が投げかけられた。どういう意味ですか? と、カップに手をかけたまま尋ね直すと、彼はおもむろに口を開いた。
「経緯は分かりませんが、あの時、あなたを打った女子生徒は怒気を帯びた顔つきをしていました。そして、感情に任せて振り上げられた手。
状況から察するに、メルヴィン、あなたがあの女子生徒の怒りを買ったことになる。
だから――。だから、なぜ、抗ったのかと自分は問いました」
多勢に無勢のあの状況下で、自らの手を痛めてまで私の頬を打つ必要は、実のところリエラ・レイゼットにはなかったはずだ。
あれだけ優劣がはっきりとついた状態で、余裕のあるはずだった彼女が我を忘れてしまった理由。それは、間違いなく自分の主張が通るだろうと考えていた彼女に、突として穿たれた抵抗にほかならない。
何もせず、彼女の言い分を聞き入れ、流れに身を任せてさえいれば、打たれることもなかったはずなのに――。
”なぜ、あなたはそれでもなお抗ったのか”と青年は私に問うている。
なぜ、か。
改めて問われてみれば、それは至極当然のようであって、曖昧模糊すぎる自身の感情がそうさせた、と答えるしかない。
それが反骨心から来たものなのか、それとも自尊心から来たものなのか、正直私に判断することは出来ないだろう。
ただ、一つだけ。
この問いに、言葉として伝えられる答えがあるとすれば、一つだけ思い当たる決断があった。
「それはもちろん、譲れないものを守るためです」
そう。なんてことはない。
私は、あの時グレイシス様の手によって覆されてしまった自己の認識を、ただ、守りたかっただけなのだ。
「譲れないもの……ですか」
「はい」
「それが、自己の保身よりも大事だったと……」
「はい。だって、それを諦めてしまえば、私が私ではなくなってしまうから」
最終的な結論は、ホルスとの会話の中で無意識にこぼれ落ちていた。
それを特に気にも留めることなく、私は目の前の人物に視線を注ぐ。
「……………………」
青年は、しばらく無言で空になったカップを見つめた後、私を一瞥して一言、いいですね、とだけ告げる。
まるで独白のように告げられた言葉は、当たり障りのない感想のようでいて、その実、彼の本心のようにも思えた。
「用も済んだことですし、そろそろ行きますか」
「あ、これは自分が後で片しておきます」
「……いいんですか?」
「はい。ここで少し考えたいこともあるので」
「分かりました。では、後片付けはお願いします」
空になったカップをその場に残し、私は一人席を立つ。
広い食堂の床をコツコツコツと数回蹴って、何気なく後ろを振り返った。
視界に映ったのは予想していた通りの光景。
夕闇に染まる食堂で一向に動く気配を見せないホルスと、テーブルに置かれた二つのカップ。
私は一度視線を床へと移し、そして何を思ったのか、自分でも予想外なことを口走っていた。
「あの……! ホルス! よければ明日、昼食を一緒にしませんか?」
「え――――」
それまでひたすらにカップへと注がれていた視線は、一息でこちらへと向けられる。
青年は一旦こちらを凝視した後、一体どうして? という顔をして見せた。
私はそれに答えるように、言い訳がましい理由を取り繕う。
「え……っと、だってほらホルスは転入生ですし! 学園のこととか、授業のこととか、クラスのこととか、色々聞きたいこともあるでしょうから! だから、です!」
「そう、ですか……?」
誘っておきながらその理由付けを相手のせいにするという半ば強引な手段に、我ながら情けなさを感じつつも、これくらいのことを言わなければ彼は誘いに乗らないだろう、というわずかばかりの自負心があったのも事実。
いまいち状況が分かりきっていない青年を前にして、私は自分でも驚くほど強気に出ていた。
「そうなんです! 四の五の言わずにお昼ご飯、一緒に食べますよ!」
ここまで言われて断れる人が、果たしてどれだけいるだろう。
私の押し強い姿勢は、見事なまでに相手の意表を突いてしまったようで、ホルスは口をぽかんと開けたまま話を聞き、それから一度だけ俯いて、分かりました、と呟くのだった。
その様子を見届けた私は、その後、急激にやってきた気恥ずかしさと共に食堂を後にする。
背後では、席を立つガタリという音だけが聞こえた。
誰もいなくなった放課後の廊下を、一人考えながら歩く。
あの時、私はなぜホルスのことを放っておくことが出来なかったのだろう。
教室で自らの贖罪のために、彼に声をかけた時とは違う感覚がそこにはあった。
どちらかと言えば、そう――……。
何もないカップの底を眺める姿が、あの時の自分のようで。
どこに行けばいいのか、何をすればいいのか分からない迷子のような彼の横顔に、過去の自分の姿を重ねてしまったのだ。
あの時の私は、グレイシス様の言葉と行動に救われたから。
だから、これは彼の真似事に過ぎない、私なりの微力なお節介というやつなのだろう。
それで何が変わるわけでもないけれど、少なくとも、静止していた彼を動かすくらいの役には立った。
私は一人、自己満足に浸りながら静まり返った校舎を歩いた。
********************
一人残された食堂で二人分のカップを片付ける。
片方は自分の、もう片方は、今さっき食堂から出て行ってしまったクラスメイトのものだ。
綺麗に飲み干されたカップの底にはもう何もなく、手で握ると先ほどまであった温もりも無くなっていた。
両手に空のカップを抱えながら調理場前のカウンターへと歩く。
ゆっくりと進む歩みとは相反して、自身の内情は目まぐるしく動揺していた。
メルヴィン・ローズの発言はいつも驚くほどの意外性を孕み、それが何もなかったはずの感覚を刺激し、能動的に興味を持たせる。そこに、快楽的な鋭さと、目を覆いたくなるほどの鮮やかさを添えて。
『ほら、やっぱり。中身はからっぽ――――』
彼女の動向を探るために後を付け、彼女がどうするかと様子見していた時に放たれた言葉。
それは、何もするはずのなかった自分の身体を自然と動かしていた。
反抗するように駆けられた足と、掲げられた右手。
――あれが、彼女から教わった”とっさに身体が動く”という感覚なのだろうか。
気付きたくないことに気付いてしまった虚しさと、気付いたことへの喜びと、二つの感情に挟まれた自身の在り方に疑問を抱きながら目的地に着く。
カウンターにカップを二つ静かに置くのと同時に、自分に課せられた役目が何か今一度立ち返った。
余計な思考は無意味であり、自分はただ、アザナス様のお役に立てるよう今まで通り言われたことに忠実であればいい。
昼食に誘われた時断らなかったのも、それが情報収集するには最適な場であると判断したからだ。
――だから、一瞬でも嬉しい、と感じてしまった自らの思いには気付かないふりをして、これまで通りの在り方を徹底しよう。
そう決心し、食堂を後にする。
誰もいない廊下には、自身の足が弾む音だけが静かに響いていた。
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