澄まし顔
窓の外から室内へと視線を移す。
教室の隅、日の当たらないその場所にいたのは、ホルスとクラスメイトの一人だった。
騒ぎを聞きつけた他の者達が、野次馬となって辺りを取り囲む。
その悲惨な状況を見て楽しむ者もいれば、新しい玩具を見つけたとばかりに喜ぶ者。自分には関わりのないことだと視線を逸らす者。
クラスメイト達が三者三様の動きを見せる中、その中心にいた人物は至って冷静に振る舞った。
「ご期待に添えることが出来ず、申し訳ありません」
……冷静、というよりは、どちらかと言えば無感情に近い反応。
クラスメイトの男は、そんな些細な違いを理解することもなく、ホルスの変容に悦を感じている様子だった。
男の傾倒した感情は、次第に激しさを増していく。
「お前、俺に迷惑をかけたんだから相応の誠意を見せろ」
「誠意、というと具体的には何を……?」
「これ、拭いて綺麗にして」
当然とでも言うように、ホルスを見下しながら男は右足を差し出した。
「昼休みに汚しちゃったんだよね。これ綺麗にするくらいならお前でも出来るだろ?」
「承知しました」
感情のない声で答えると、転入生は床へと跪く。
それを眺めながら満面の笑みを浮かべる男。
他人が床を這う姿を、心底愉快そうに鑑賞する見物人達。
異様な空間、異様な光景ではあるが、私はそれを知らない訳ではなかった。
――――ああ、ほんとうに。アシェリーの言う通り。
アランの後ろ盾があった頃の私は、澄まし顔で、日頃繰り返されていたであろうこの光景を、見過ごしていたのだ。
あるいは野次馬よりも度し難い行為。無関心、とでもいうのだろうか。
自分に関わりのないことを無意識下で排除して、視界に収めることも、記憶に留めることもしなかった過去の自分がそこにはいた。
それが、愚かなことかと聞かれれば、決してそうではないのだろう。
……でも、今の私は、そんな自分のことを好きにはなれなさそうだ。
あの時、ほんの少しでも視線を上げて、彼女の、アシェリーの心情を知ろうとしていれば、何かが変わっていたのかもしれない。その何かを見過ごすようなことを、今の私はしたくない。
――――だから。だから私は。
ホルスが自らのポケットから白いハンカチを取り出して、主人の機嫌を取るように靴に触れようとした、その瞬間。
「ホルス・リオネットではありませんか」
私は椅子から立ち上がり、暗雲立ち込めるその場所へと歩いていった。
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辺りがざわついているのが分かる。それらを無視して、私は一直線にホルスの場所へと向かう。
誰よりも一番驚いた顔をしていたのは、意外にも名前を呼ばれた張本人だった。
まるで、幻想でも見ているような顔で私を見上げてくる。
「え……。あの、あなたは」
「なんだよ急に!? メルヴィン・ローズ、お前には関係のないことだろ。なあ?」
「関係あります。関係ありありです。むしろ関係しかありません」
言葉として正しいのかはこの際どうでもよくて、明らかに不利な状況を覆すべく、私は同じワードを繰り返した。そして、追い打ちをかけるように更に言葉を重ねていく。
「彼は私の友人です。このような、尊厳を踏みにじる行為は止めてください」
「尊厳を踏みにじる行為って……」
口元を片側だけ吊り上げながら男は言う。それは、明らかな動揺の色だった。
この隙を逃してはいけない。ここを突かなければ、形勢はこちら側に傾いてはくれない。
「そもそも、一体ホルスが何をしたと言うのですか?」
「俺に気安く話しかけてきたんだぞ? それだけで不敬だろうが!」
「……それが?」
「それが、って…………」
「ただクラスメイトに話しかける行為の、何が罪だというのでしょうか。では、私が今あなたに話しかけているこの行為も不敬であると、そうあなたは言うのですね?」
「それは――……」
そうだ、と男に断言することは出来ない。なぜなら、今のメルヴィン・ローズには価値があるからだ。定期舞踏会でアスタイン家の者と一緒にいたという、たったそれだけの価値が。
「答えられない。……となると、あなたの不敬だという主張は、ただの言いがかりにすぎません」
誰にも疑念を抱かせないように、誰からも反感を買わないように、胸を張って、それが正義であると全身全霊で訴える。
「ちがっ………………」
何も反論できない男を見て、周りの空気が変わり始めた。
「確かにそうよ……ね。ただ話しかけるだけの行為が不敬だなんて、そんなの屁理屈だわ……」
「俺は最初から見てたけどさ、あいつが急に一人で騒ぎ始めたんだぜ?」
「私も、なんだかおかしいと思っていましたのよ。ここまで騒ぎ立てるなんて、威厳ある貴族のやることではないですもの……」
見事なまでの手のひら返し。
見物人の数が多ければ多いほど、一度傾いた意見はどこまでも傾き続ける。
自分の味方だと思っていた者達が、いつの間にか自分の敵へとすり替わる。これほどのダメージを負ってなお、男は、自らの主張を貫くことはできるだろうか?
「そ、う言われると……、俺もつい、かっとなって……」
――答えは、ノーだ。
「ついかっとなって、彼を跪かせた、と?」
「……ああ」
男の認める声を聞いて、辺りは一層ざわめき立つ。
もうこれで十分だろうと判断した私は、最後に少しだけ、自らの気持ちを吐き出した。
「一時の感情で、他人を蔑ろにしないで頂きたいものです。聡明な貴族様なら、この意味がよくお分かりでしょう?」
張り上げた声は、驚くほど遠くまで響いた。
静まり返る室内。
私は、もう用は済んだと言わんばかりにホルスへと向き直る。
「そういえば、まだ学園を案内していませんでしたね。よければ放課後、お時間ありますか?」
「……は、い」
「では、また後で」
端的な約束を取り付けると、私は自分の席へと戻った。
そのまま、起こった出来事全てを忘却するように、鈍く、重い、鐘の音が鳴り響く。
集まっていた生徒達が何事もなかったように次々に席へと着くと、そこからいつも通りの午後の授業が始まった。
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「先程はありがとうございました」
全ての授業を終え、各々が帰る準備をしている頃、私とホルスは約束通り学園内を見て回っていた。
教室ごとの説明を歩きながらしている最中のこと。不意をついて転入生が口にしたのは、私へのお礼の言葉だった。
特に感じ入る様子もなく、淡々と作業的に告げる彼を見て、私は、その在り方こそが彼の本質のように思えてしまった。
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