合縁奇縁
ガチャリ、という扉が閉まる音。
誰もいなくなった自室で、一人読書に耽る。
しばらく整然と並べられた文字に熱中して、ふと我に返った。
本を支えている側の手ではなく、ページをめくっている側の手へと視線を移す。
頼りない手に同調するように巻かれた白い包帯。それは明らかな治療の痕である。
あの使用人の女性に、気付かれてしまっただろうか……。
あまり大ごとにしたくないからと、グリルダに相談して内々でことを済ませてもらった。
それ以降は彼女の計らいで、自室への人の出入りはほとんどなかった。
だからこそ、少し油断していたのだろう。
――まさか、本を落としたタイミングで部屋の外に人がいるとは。
低く鈍い音は、床を這い意外にも遠くまで響く。そしてその異音を聞きつけた者は、グリルダからの指示よりも緊急性を鑑み確認しに来てしまう。何よりも分かりやすい話だ。
つまるところ全ては自分の落ち度である、と。
「ふぅ……」
己の不甲斐なさに、つい溜息を漏らした。
自分はこんなにも不器用な人間だっただろうか。
これまでの人生、周りからの期待にも均整に応え、自らの立ち位置を理解しながら、出過ぎず、けれど後手に回らぬよう努めてきた。
その緻密なバランスが崩れたのはいつだったか――――。
『あなたは、妖精さん……?』
まるで己自身の軽薄さを言い当てられたような感覚。
あの、黒く澄んだ瞳は、僕の内面の空虚さを一瞬で見抜いてしまった。
外側ばかりを必死に固めてきた僕には、実のところ、堅固に守るべきものがなにもない。
周りに求められるがままに生き、自分がどうしたいのかを見出さない身軽さを、彼女に笑われているような気がした。
『そんなことがどうでもよくなってしまうほど、追い詰められていたからでしょう』
結局のところ、僕はそんな自分の在り方を肯定しているふりをしながら、その実、どこかで逃げ出したいと思っていた。
だからこそあの日、実の父からあの話を聞いた後、堪えきれずに現実から逃避した。世界から隔絶されたあの場所へと。
そこで出会ったあの人は、天使なのか、はたまた悪魔なのか。
どちらにせよ、ただ一人の人にここまで心躍らされたのは初めてのことだ。
彼女の胸中がどうであれ、僕はきっと、その一喜一憂する表情全てに、独り墜ちていくのだろう。
********************
着替えを済ませた私は、ポールと共に学園へと戻ってきた。
正門を潜り、最初に落ちあった校舎中庭で彼と別れた後、その足取りのまま東の寮へと帰る。
寮に辿り着く頃には日も暮れ落ちていることだろう、などと考えながら歩いている道中で、私はとある人物を見かけた。
何やら大きめのリュックを背負い、両手に手提げ袋を持ったその人は、どこか不安定な歩き方をしている。
普段、そこまで周りを気にする人間ではない私も、なだらかな坂道を危うい足取りで登るその人の様子が気になって、つい意識を向けてしまっていた。
どうやら大量すぎる荷物によって、持ち手の重心が右に左にと引っ張られてしまっているようだ。
しばらくの間、素知らぬ顔で背後から様子を窺っていた私だが、その人物が今にも倒れそうになるのと同時に、焦って声を発してしまった。
「あ、あの! 大丈夫ですか?」
大量の荷物を抱えた人物は、なんとかその場を踏み留まると、一息ついてから振り返る。
「――はい。ご心配をおかけしました」
そこにいたのは、規則正しいお辞儀をする青年。朗らかに笑う顔と、お辞儀と共に揺れる茶褐色の髪の毛が、彼の丁寧な言葉と重なる。
「……あの、お手伝いしましょうか?」
「あ、大丈夫です。こう見えて自分、結構力持ちなので」
今にも倒れてしまいそうな状態を、ほとんど気にも留めることなく青年は笑った。
確かに、普通の人なら二回に分けてしまうであろう荷物の量を、難なく抱えてしまっているのだから、彼の発言は本当なのだろう。
けれど――――……。
今にも倒れてしまいそうなほどの荷物を、一人で抱え込む必要はどこにあるのだろうか。
「いいえ、手伝います」
「え……」
「どれを持てばいいでしょう」
「えっと……、ではこれとこれを、お願いします……」
「分かりました」
どこか踏ん切りがつかない様子の青年から、小さめのカバン二つを受け取った。
そのまま隣を無言で歩き始める。
「あの、一体どうして…………」
困惑した表情を見せる青年に私は答えた。
「恐らく、この道を歩いているということはあなた様も東の寮に向かわれるのだと思います」
「その通りですが……」
「私も丁度、その場所へ帰るところなので」
「それが手伝う理由、ですか?」
「はい。あなた様を手伝っても手伝わなくても、結局帰る場所は同じですから。ついでというやつです」
その言葉を聞いてようやく納得がいったのか、青年はありがとうございます、とだけ呟いた。
その後は特に会話もなく歩き、目的地である東の寮へと辿りつく。
「この辺りでいいですか?」
私は寮の入り口が隣接している寮長室の前まで来ると、青年に問い掛けた。
「はい。ありがとうございました」
「いいえ。ここまで来れば、きっとあそこにいらっしゃるバロワイル婦人がなんとかしてくれます」
「……そうでしたか」
「はい。では、私はこれで――」
失礼します、と言いかけて、それは青年の言葉に遮られた。
「あの、あなたのお名前を伺ってもいいでしょうか?」
「私、ですか? 私の名前はメルヴィン・ローズと申します」
「メルヴィン・ローズ様……」
「様はいりません。ところで…………」
「あ、失礼しました! 自分はホルス・リオネットと申します。自分も呼び捨てで構いません」
「分かりました。ではホルス、私はこの辺で失礼します」
「はい。メルヴィンさ……、メルヴィン、またどこかで」
ホルス・リオネットと名乗った青年は、和やかに告げると寮長室へと向かっていった。
その細身でありながら、しっかりと荷物を抱え込む背中を見送ってから、私は寮の中へと入っていく。
――またどこかで、か。
大量の荷物を持ち運んでいる様子から見て、恐らく転入生だろう。
こちら側にいるということは、私と同じ庶民の出か、それともエメット同様、中流階級の貴族か。
どちらにせよ不思議なものだ。
学園の席数は1クラス30と決まっている上に、この時期の転入生は極めて珍しい。
どこかのクラスの席が空いて、たまたま移動の時期が重なった役人でもいたのだろうか。
私は、まるで他人事のように思案した後、自らの部屋へと向かうのだった。
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