最良の友
全ての本を拾い終えると、この部屋の主は、机の上に重ねられた本に手をかけながら呟いた。
「助かった。感謝する」
「いいえ、当然のことですから」
「そうか」
「……………………」
気まずい沈黙が流れる。
このままここに立ち尽くし続けるのは、流石に不自然だ。
――けれど、私はまだ、この場所にきて一番したかったことが出来ていない。
たった一つの疑問を投げかければ済む話。けれどそれを投げかける行為は、使用人エリザの信頼を失う危険性と隣り合わせでもある。
だから、せめて、使用人エリザとしての立場が揺らがない程度の質問を、私は投げかけた。
「お加減はいかがですか?」
「僕が、か?」
「はい」
「僕は、見ての通り元気だ」
「それは、よかったです」
このやり取りに一体何の意味があったのか。実際に確認したかったグレイシス様の手の傷は、その様態を知ることも出来ていない。だというのに私は、この些細なやり取りだけで満足してしまっていた。
それは、恐らくだけれど、答えてくれた青年の表情が、想像していたよりも柔らかく朗らかで、充足しているように見えたから、なんだと思う。
「では、私はそろそろ失礼いたします」
「ああ」
既に私という存在を忘れてしまったように、青年は手元にあった本に集中し始めていた。
私はその光景を横目に、慌てて落としてしまった花々を腕に抱きかかえ部屋を後にする。
使用人エリザである今の私と彼の間には何もない。
何もないからこそ、今日の出来事は、日常というありふれた景色の中へと埋もれていくのだろう。
メルヴィン・ローズという人間の中に、確かな記憶だけを残して。
********************
その後はというと、エリザのメモ通りに、彼女の午後からの仕事を順番にこなし、特に誰と会話することもなく帰路についた。
仮初の使用人エリザの帰る場所は、始まりの場所、喫茶店。
その場所へ辿りつき、待ち人が今か今かと待っているであろう二階へと上がっていく。
ガチャリ。
「お待たせしました!」
勢いよく発した言葉は、室内にいる者達の耳には全くと言っていいほど届いてはいなかった。
「あー! もう、あんた強すぎなのよ!!」
「エリザちゃんは、負けるのが随分とお好きなようだ」
「うっさいわね!!!」
「それじゃあ、まあ、俺の勝ち分を頂こうか」
「くぅぅぅぅぅ!」
扉を開けてすぐさま目に飛び込んできたのは、エリザとポールがカードを使って何かをしている光景。
そして、私の存在に気付くことなく紡がれた両者の会話を聞いて、私のいぬ間に起こったであろうこの部屋での惨劇は容易に想像することができた。
「あのー……」
「もう一回! 次はさっきの倍で!」
「倍にするほどの手持ち、お前今あるのか?」
「あのー!!」
「あるわ! 多分!」
「多分で賭けに乗るほど、俺もバカじゃない」
「あのー!!!!」
「「え?」」
ようやく届いた私の呼びかけに、二人は全く同じタイミングで振り向くのだった。
「悪い、メルヴィンさん……」
「ごめんね、メルヴィン」
まるで叱られた子供のように、眉を八の字にするエリザとポール。
そんな素直すぎる二人を見ていたら、無視されたことなどどうでもよくなっていた。
思うままに生き、在るがままに受け入れる。
羨ましいほどの奔放ぶりを見せる二人は、私の周りにはあまりいないタイプだ。
エメットは、いつもこんなにも愉快な人達と一緒にいるのか……。
そう思ったら、なんだか不思議と安心できている自分がいた。
「ポール、エリザ、今日は本当に色々とありがとうございました。お屋敷の中ではエリザのメモ通りに動いたので、明日の仕事に支障が生まれることはない……と、思います。多分……」
「何かやらかしたの?」
悪意のない鋭い目つきを向けられて、私は正直に憂いごとを話した。
「はい。実は、グリルダという使用人の方から、グレイシス様の御部屋には当分の間、入らなくていいという指示があったんですが……」
「入っちゃったんだ?」
「はい……」
「ご子息様には?」
「会ってしまいました……」
「あー、それはまずいねー」
「!」
とんでもないことをしてしまった……という思いが顔に出ていたのか、それを見たエリザが途端に笑い始める。
「くふふふっ。なーんて冗談!」
目を点にする私をよそに、彼女は話を続けた。
「ごめんごめん。グリルダさんは使用人長だね。今朝は特に指示とかなかったから、いけるかなーって思ってたんだけど……。まあでも、あの人に部屋に入るところを見られた、とかでない限りは大丈夫だと思うよ」
「……と言いますと?」
「ご子息様は基本的に告げ口するような方ではないから。何か不審なことでも起きない限り、余計なことは言わないと思う。よって、結果オーライ」
「本当ですか……?」
どこまでも訝しむ私に対して、エリザはうんうん、と適当に答えると、何かを思い出したように、手をぱんっと叩いた。
「そっか。じゃあ会えたんだね!」
「それは、そうですが……」
「目的は達成できた?」
「実のところ、負傷した右手を治療したかどうかの確認は出来ませんでした」
「まあ、何も知らないはずの使用人から突如傷のことを尋ねられたら、流石に怪しいと思うか……。でもあれかな。グリルダさんが人払いをしてるってことは、色々と処置済みと見ていいかも。あの人は、ご子息様がお屋敷にやって来られた時からいる方だから、ご子息様も信頼しているはずだし」
「そうですか……。それなら、目的は達成できたと言っていいかもしれません」
私は、ふぅ、と安堵の溜息を吐いた。
ん……? 今エリザは、グレイシス様がお屋敷にやって来られた時と妙な言い回しをしたような……。
私の聞き間違いではなかったとして、アスタイン家の嫡子であるはずのグレイシス様が、一体どこからやって来る必要があるというのだろう。
私のような商家の者なら引っ越すこともあるだろうが、相手は、建国当時からこの国に銘を刻んでいる一族の末裔だ。代々受け継がれてきたであろう、由緒あるお屋敷に住むことが、彼らが彼らである証明と言ってもいい。
だから、あり得ないはずなのだ。あの場所で生を受け、あの場所で生活しているはずの人間が、他所からやってくるという事柄が。
――――気にはなる、けれど。
何はともあれよかったよかった、と話を一区切りさせようとしているエリザに対し、本題以外での余計な詮索は不躾に思えて、私は自らの好奇心を諫めた。
「お、話はついたか? ならそろそろ、俺はメルヴィンさんを学園まで送らせてもらうよ」
それまで、我関せずという表情で窓の外を眺めていたポールが声を上げる。
「送らせてもらうって、あんたの帰る場所もコルテシアでしょ? なにかっこつけてるんだか……」
「今日は出番がほとんどなかったんだ。最後ぐらいいいだろう?」
「あー……はいはい」
エリザはポールのひょうきんぶりに半ば呆れながら、一足先に部屋を出た。
メルヴィンまたね! という再会を予期させる言葉を残して。
室内に残された私とポールは、エリザに続く形で出入り口へと近づく。
そこで突如、何かを思い出したように友人の婚約者が口を開いた。
「あ、待てよ。学園に帰ると言ってもその格好のままじゃまずいよな」
「あ……。そうでした」
私は、完全に馴染みきっていた自分の恰好を一瞥した。
「俺は下で待ってるから、着替えが終わったら下りてきてくれ」
「分かりました。あの……」
「ん、どうした?」
「……いいえ、やはり大丈夫です」
「お、そうか。じゃあまた後で」
そう言って、部屋を出ていくポール。
私は、彼の背中を見送りながら、本当は聞きたかったあることを頭の中で反芻した。
それは、エリザがあの方と呼んでいた、下準備をして待っていてくれた誰かのこと。
もしその人が、私の予想通りの人物だったとすれば――――。
間違いなく彼女は、あの日、私とグレイシス様がダンスを踊った場面を目撃している、ということになる。
考えてみれば当然のことではあった。
あれだけ多くの人が集まる会場の、それも中心部で、誰の目も気にせずに踊っていたのだから。
彼女と、彼女に連れ添っていた婚約者が、それを見ていない訳がなかったのだ。
……それでも知らないふりをした。
それが、友人として私に接する上での最良の選択であると、彼女自身が判断して。
そこまで考えを巡らせてみて、途端に冷静になる自分がいた。
「……なんて。あるわけない、か」
襟元のボタンを外しながら一人考える。
それでもいい。どちらにせよ私は、この曖昧で不確かな自己の衝動を、いつか私の大事な、大事な友人に話すつもりでいるのだから。
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